食事を終えて、先に陽深が風呂に入り、入れ替わりのように広瀬が入った。ホテルの大浴場とまではいかないまでも、他の泊り客も使う共同浴場なのだから一緒に入ってもよかったのだが、広瀬は先に入れと促した。
不自然なのはわかっていたが、風呂場で以前のように反応してしまったら言い訳のしようがない。陽深の方は別段不審に思った様子もなく、素直に広瀬の言葉従った。
一緒にいると楽しくて、居心地がよかったはずなのに、最近どこかぎこちない二人の空気。気詰まりではないのに、一緒にいるとどこかで緊張している。
相手の一挙手一投足が気になって、落ち着かない。気がつくと、ただ見つめていた。――こんな状況をなんと呼ぶか、本当は広瀬ももう気付いていた。
広瀬が部屋に戻ると、浴衣姿の陽深が、並んで敷かれた布団の上に所在無く座っている。暖房の効いた部屋で、浴衣の上から丹前を羽織り、それなのに彼はなぜか寒そうに見えた。
陽深は帰ってきた広瀬に気付くと、顔だけ向けて言った。
「降ってきましたよ」
横にかがみ込むと、陽深が指をさした雪見障子を透かして、うっすらと雪を被り始めた庭が見える。
「ああ、本当だ。この分ならかなり積もるだろうね。――障子、開けようか」
「え?」
陽深は一瞬怯えた目で、広瀬を見返す。
「開けたほうが良く見えるだろう? もう一枚ガラス戸が向こうにあるから寒くはないし」
「そう――、ですね」
陽深の様子にどこかぎごいないものを感じながらも、広瀬は立ち上がって障子を開ける。
一面に広がる、雪景色。
暗くて湖の方までは見えないが、整えられた小さな庭はもう真っ白で、その上の空間までも埋め尽くすように、ゆっくりと落ちてくる牡丹雪。あとから、あとから。
広瀬はちょっと考えて部屋の明りを消し、陽深のそばに戻ると黙って横に座る。陽深は、黙ったままじっと外を見ていた。 明りを消した部屋から見る雪景色は、それ自体が発光しているかのように、青白く浮かび上がっている。 ずっと降り続く雪をみていると、理由もなく不安になる。波の打ち寄せる浜辺で、ずっと波を見つめて続けているときのような、不安と孤独。まるで、世界でたった一人の人間になってしまったかのような――。
「広瀬さん」
不意に、陽深が広瀬の浴衣の袖を掴む。
「ん?」
振り向いた広瀬に、
「いえ…」
目を伏せて首を振る陽深。離そうとした手を、広瀬が引きとめる。
「――冷たいな。寒い?」
広瀬は掴んでしまってから、振り払われるかと不安になる。冷たくこわばった、陽深の手。
「いいえ…。広瀬さんの手は、温かいですね」
けれど陽深は、そう言って、広瀬に預けたままの右手から、体から、ほっと力を抜いた。そこで初めて、広瀬は陽深が体を固くしていたことを知った。
「陽深?」
どうしたのかと問うような広瀬の視線から逃げるように、陽深はそっと雪景色の方へ目を逸らす。
「本当はずっと、――怖かったんです」
「怖い?」
「ええ。雪は…、母が死んだときのことを思い出すから――。いつか、少し話したことがありましたよね」
「ああ」
広瀬は掴んだままの手に力を入れる。
「父と母の間のことや、向こうの家庭のことは、子供だった僕には、よくわからないことでしたし、どうでもいいことだった。母が亡くなった、本当の理由も――。ただ、覚えているのは、いつからか三日とあけず家に来ていた、父――と教えられた男の人が、そのうちだんだんと来る回数が減っていって、それと並行して母のお酒の量がどんどん増えて。――そして、ついにはその男の人が来なくなった。――母はいつも、何があっても、夕方には食事の用意をして、きれいにお化粧をして、何時に来るかわからないその人を毎日待っていました。最後の方は、きっと彼は来ないって、わかっていたはずなのに。毎日明け方までずっと起きて待っていて、でも結局は彼の為に用意したお酒を飲んで、飲みつぶれて寝てしまう。もうそんな日がずっと続いてた…。――それが、その日は…、僕が学校から帰ってきたとき母は出かけていて、何時になっても帰ってこなかった。そのとき僕は、まだ小学生だったけれど、たいていのことは一人で出来たし、母とはただ同じ家に住んでいるだけみたいなものだったから、変だとは思ったけどいつもどおり寝てしまったんです。――でも、朝、目がさめても母は帰っていなかった」
陽深は、降り続ける雪に視線を預けたまま、淡々と話す。まるで他人事のように。
仄かな雪明りが、表情のない陽深の横顔を照らしていた。広瀬は黙って彼の肩を抱き寄せる。脅かさないように、そっと。
「朝起きてすぐ、僕は外に出ました。前の夜はずっと雪だったみたいで、外は真っ白で。よく晴れた朝で、目の奥が痛くなって目を開けていられないほど眩しかった。――そこで、見つけたんです。家から十メートルと離れていない道端で、半分雪に埋もれるように倒れている母を。――でもね、なぜかそのときは、大変だとか、死んでいるんじゃないかとか、そういうことは考えなかったんです。僕は…、ゆっくりと滑らないように気をつけて歩きながら、母の近くへ行きました。顔も手足も真っ白で人形のようだったけれど、気に入っていた春物の柔らかい花柄のワンピースを着て、夢を見てるみたいに微笑んで。――そして、すぐそばにしゃがみこんで、投げ出されていた母の手を取ったんです。そしたら、とても、冷たくて――」
そこまで言うと、陽深はふっと自嘲するように小さく微笑った。
「当たり前ですよね。死んでるんだから――。でも、僕はびっくりして、怖くなって…、手を離すことが出来なかった。――氷のような母の手は、ぴくりとも動かなくて、僕が手を離せば簡単に滑り落ちるのに、まるで繋がった鎖みたいに、離せなかった。――そのうち近所の人たちが気付いて、大騒ぎになって…。――母の死因は、泥酔して路上で眠り込んでしまったための凍死ということに、なりました」
陽深は少し間をおいてから、広瀬の顔を見上げ、努めて冷静に言った。
「でもね、変かも知れないけど、もう昔のことだし、母の死自体はとっくに納得してて、哀しくはないんです。ただ、雪は――、母の冷たい手の感触を思い出させるんです。寒さには強いはずなのに、どんなに暖かくしていても、雪を見てるだけで、寒くて、意味もなく不安になる…。叫び出しそうなほど。――おかしいですよね、自分から見たいって言ったくせに。雪を見なくなって随分経つから、もう平気になったかなって思ったんですけど…」
「陽深…」
気がつくと広瀬は、陽深の体を抱きしめていた。少しの隙間のできぬよう、包み込む。
「暖かいですね、広瀬さんは」
陽深が、吐息に紛れて、呟いた。
「寒くないよな」
確かめるように、広瀬がささやく。
「はい」
「怖く、ないよな」
「はい――」
なにも考えられなくほどに、ただ、人の温もりが欲しいときがある。陽深はそれを、初めて知った。広瀬の腕の中、頬に感じる、広瀬の首筋、肩、体温。
広瀬はそっと、陽深を横たえた。
はだけた浴衣から覗く肩のくぼみに、唇を落とす。膝に、腿に、手を這わす。寄せ合う肌と肌で、互いの存在を確かめる。頬にかかる息遣い、胸の鼓動。皮膚の味、骨の感触――。目を閉じていても、夢じゃない。
愛撫と、喘ぎに混じる互いの名と、それだけで想いは伝わる。『愛』という言葉を口にする必要は、なかった――。
頬を撫でる冷たい空気に、目を覚ます。
目を細めて開けた広瀬の視界の隅に、もう着替えを済ませた陽深の姿があった。窓を開け、縁側に腰掛けて外を見てる。
「おはようございます」
広瀬の視線に気付いた陽深が、振り返る。
「ごめんなさい、寒いですか?」
「いや」
広瀬は立ち上がって浴衣を羽織ると、陽深のそばへ行く。良い天気だった。庭の向こうに広がる、蒼い湖。それ以外は、ただ真っ白な世界。吐く息さえも。
白いセーターを着た陽深の肩を、後ろから抱きしめる。
「きれいだな」
「ええ」
もう、陽深は逃げない。広瀬は陽深の手を取った。
「ああ、温かいな」
陽深は一瞬きょとんと広瀬を見上げ、言う。
「広瀬さんの手の方が、温かいですよ?」
「それは、寝起きだからだろ」
寝癖のついた頭で、素肌に浴衣一枚巻きつけただけの格好で、あくび混じりに言う広瀬に、陽深はくすくす笑いながら言った。
「寒くないんですか、そんな格好で」
「そりゃ、寒いよ。すっごく」
寒そうに、大げさに肩を竦めて言う。
「風邪ひきますよ。早く服を着てください」
「冷たいな、陽深。温めてくれよ」
広瀬はそのまま、陽深を押し倒す。
「え?――ちょっと、広瀬さん重い!」
もがく陽深の上に重なったまま、頬を重ねる。
「陽深」
耳元でささやく。少し体を起こして視線を合わせる。そのまま顔を近づけて――。
そのとき、離れの前の廊下から足音が聞こえた。
慌てて飛び起きたのとほぼ同時に、戸口の向こうから声がかかる。
「おはようございます。お目覚めですか?」
「は、はい」
「失礼します」
仲居さんが襖を開けたときには、広瀬はなんとか帯を締め終えていた。
「お布団、お上げしてよろしいですか?」
「はい、すみません」
布団の上に正座していた広瀬は、慌てて避ける。陽深は、部屋の隅で笑いをかみ殺していた。
落ち着かない沈黙の中、黙々と布団を上げ終えた仲居さんが、口を開く。
「もうすぐ朝食の用意ができますから」
てきぱきと部屋を整え、すぐに部屋を出て行った。
朝食時で忙しいのだろう。早く行ってくれて助かったと、広瀬がほっと溜め息をつくと、ずっと笑っていたらしい陽深が言う。
「おかしい、広瀬さん。そんなに慌てなくても――」
「慌てるよ。ああびっくりした」
陽深はおかしそうに、いつまでもくすくすと笑っている。こんなにくつろいで、楽しそうな陽深を見るのは、初めてだった。広瀬も、そんな陽深を見ているだけで、なんともいえない幸せな気持ちがこみ上げてくる。
「飯食ったら、湖の方へ行ってみようか」
「ええ」
雪景色にぐるりと取り囲まれた湖は、まるで鏡のように澄んでいた。旅館の脇にある、雪に埋もれて判別のつきにくくなった小道をゆっくり降りてゆく。
「滑るなよ」
差し出された広瀬の手に、ごく自然に手が重ねられる。
松林の中を、重なる二つの足跡を残しながら水辺まで歩いた。水際まで雪に覆われた岸辺、空を映した湖。青と白を分ける境界線が、ずっと遠くまで続いている。
「あ」
並んで歩いていた陽深が、雪で隠れていた窪みに足を取られバランスを崩した。
「大丈夫か?――歩くの辛いなら、部屋に戻ろうか」
「――大丈夫です」
変に気を回す広瀬に、陽深が赤くなって顔をそらした。
途切れた会話を繋げようと、広瀬が言葉を探す。
「――この雪だと、朝からすごい渋滞だろうな。まぁよく晴れてるから、俺たちが帰る頃にはましになってるだろうけど…」
なにげなくそう口にした自分の言葉で、広瀬はふいに、現実に引き戻される。
そう、戻らなければならない場所がある。いつまでも、ここにはいられない。それは、わかりきったことで――。
陽深は湖の方を向いたまま、黙って並んで歩いている。広瀬の方からは、陽深の顔は見えない。
湖全体を見渡せる高台で、立ち止まる。
風、というほど強くはない、湖から流れてくる澄んだ冷気が頬を撫でる。氷も張らず、雪の積もらない鏡のような水面。昨日と同じ湖のはずなのに、なにもかもが違って見えた。
「たった一晩で、こんなに変わるんだな。昨日見た風景と、とても同じところとは思えないくらい…」
独り言のように呟いた広瀬に、
「そうですね――。季節や、天気や、朝夕、それに見る人の気持ち次第で、目を奪われるほど美しく感じるときも、なにも感じないときもある。たとえそれが、同じ場所であっても」
湖に目を向けたまま、陽深が答える。
「ああ。――そうだな、そういうものなのかも、知れないな」
同じ場所に立ち、同じものを見ている二人。
けれど、立ち止まってしまった二人は、あとはもう、もと来た道を引き返すしかなくて――。
二人は、足元から這い上がってくる凍り付きそうな寒さに身を任せ、目の前に広がる湖をいつまでもただ、見つめていた。
家に帰ると、珍しく優里が起きて待っていた。
「パパ! お帰りなさい!」
「優里、まだ起きてたのか。もう十一時過ぎてるぞ」
迎えに出た優里を抱き上げながら、広瀬が驚いて言う。
あのまま、陽深とあっさりとは別れ辛くて、ついずるずるとこんな時間になってしまった。
「待ってるってきかないんだもん。優里ったら、半分寝ながら待ってたわよ」
そういえば、二人とももうパジャマ姿だった。
「ごめん。――帰り、飲みに連れていかれたから」
気まずい思いで言い訳する。
「しょうがないわね、接待だし。あーあ、でも男の人ってどうしてそんなにゴルフが好きなのかしら。真冬だっていうのに」
急に土日に出かけることになって、あまり機嫌のよくなかった涼子だったが、まだ拗ねているようだ。
「優里だって、昨日も今日もパパがいないって、ぐずるし」
そう言って、広瀬の腕に抱かれたまま寝息をたて始めた娘の頬をつつく。
「悪かったって言ってるだろ。次の日曜日にはどこかへ連れていくよ」
さすがに、仕事だから仕方がないだろう、とは言えない広瀬だが、嫌味のつもりなどないはずの涼子の言葉が、なぜか癇に障った。声を荒げることはしなかったが、棘のある言い方になってしまう。
「そういう意味じゃないわ。ただ、明日も会社だし、休みがなくて大変だろうと思ったから…。ごめんなさい、疲れてるのに」
涼子はそう言うと、眠ってしまった優里を抱き取って、寝かせに行った。
広瀬は溜め息をついて、深くソファに沈みこむ。
今まで、家族を鬱陶しいと思ったことなどなかった。どんなに疲れて帰ってきても、娘の顔を見ればそれだけで癒されたし、妻と些細なことで喧嘩をしても、半分レクリエーションのようなもので、こんな気まずさを感じたことはなかった。
今さらのように、罪悪感が頭を擡げてくる。
上着も脱がずに座り込んでいる広瀬のところへ、涼子が戻ってくる。
「隆尚さん…。怒ってる? ごめんね」
涼子は、広瀬の足元に腰を下ろし、おずおずと言う。普段優しい夫の、突然の冷たい態度に戸惑っているようだった。
「いや、俺の方こそごめん…。疲れてるみたいだ。来週の休みは、優里つれてどっか行こうな」
広瀬は涼子を安心させるように、微笑を作っていった。
「お散歩で充分よ」
涼子は、ほっとした顔で笑って答える。
「じゃあ、そうしよう。――もう休むよ」
広瀬は立ち上がって寝室に向かう。
「お風呂は?」
「いい。朝シャワー浴びていくから」
振り返りもせずに寝室に消えた夫の後ろ姿を、なぜだか取り残されたような不安を抱いたまま、涼子は黙って見送った。
雲ひとつない晴天の昼下がり。陽深はいつものように画材を広げて、鴨川の河原に佇んでいた。川岸にアパートを借りてから、ここに来るのはもう習慣になっている。
けれど――、陽深は溜め息をつくと、持っていた油彩のパレットを置いて座り込む。
この土地に来てもう二ヶ月になろうかというのに、まだ一枚しか絵を描き上げていなかった。歩道橋から見た、月夜の銀杏並木の絵だけ。広瀬と出会ったあの場所の――。
いつもなら陽深は、早いときは二、三日で、遅くとも一週間もあれば一枚描き上げる。丁寧で繊細なタッチの絵だが、何時間でも集中して描き続け、一気に仕上げてしまう。描いている間は飲まず食わずで平気で、話し掛けても聞こえないくらいのめり込むことも珍しくない。彼にとって絵を描くことは、食事や睡眠と同じか、それ以上に生活の一部だった。そしてそれは、息をするように自然で、必要なことだった。
それなのに――。陽深はぼんやり描きかけのキャンバスを見上げる。
集中して描くことができない。気がつくと、違うことを考えていた。描きたいと欲求そのものさえ、薄れているような気がした。
(絵を描くことのほかに、なにも考えることなんてなかったはずなのに――)
子供の頃から、描くことだけですべてが足りていた。足りていると、思っていた。雨も風も、草も木も、暑さ寒さも、人間以外のすべての自然は、陽深を拒むことも、避けて通ることもしない。自分を取り囲む自然の姿を描くことが、彼と世界とのコミュニケーションでもあった。
暑くなれば北に、寒くなれば南に行き、またその反対も。いろいろな土地を回って、切ないほどに心惹かれる風景を、言葉に出来ない想いを絵にしてきた。それが、彼の「生活」なのだ。なによりも、描くこと以上に心奪われるものなど、どこにもない。――そのはずだった。
陽深は、仕方なく絵の具をしまい始めた。彼にとって絵は、描かなくてはいけないものでも、描こうと思って描くものではない。
あの小旅行から、もう二週間余り。広瀬と陽深は毎日のように会っていた。ほんの五分でも時間があれば。会えないときは電話で。陽深は今までにないそんな状況にと戸惑いながらも、無意識のうちに広瀬の訪れを待っている自分に気付いてしまった。
そして、――不安になる。今日も連絡があるだろうか。明日は?
いったん、習慣や約束ごとになってしまえば、それが破られるときがいつか、来る。
会えて嬉しい。会いたい。けれど、待っている自分は嫌いだった。嫌いだけれど、待たずにはいられない、複雑な感情。情緒不安定とは、こういうことをいうのかも知れないと、陽深は他人事のように思う。
自分の意思だけでは解決できない、こんな事態は初めてだった。自分のものでさえ、感情というものは思い通りにはならないらしい。
溜め息をついて視線を上げた陽深は、遊歩道を歩く人影に気付く。
せがまれて百合の花の絵を描いてやって以来、顔見知りになった母娘。買い物帰りや散歩によくここを通るらしく、ときどき顔を合わせる。
風邪を引かないようにと、ころころに着膨れして、女の子は真っ赤な頬に白い息を弾ませて、ぴょんぴょん飛び跳ねるように歩いている。どんなに寒くても外に出るのが大好きなのだと、いつか母親が言っていた。
陽深の姿に気付いた女の子が、駆けてくる。買い物袋を下げた母親は、軽く会釈してあとから歩いてきた。
「こんにちは」
駆け寄ってきた子供が、元気に言った。
「こんにちは、今日はお買い物?」
「そう、お夕飯のお買い物。今日はねー、クリームシチュー!」
嬉しそうに答える。買い物帰りに会った時は、いつもその晩のメニューを教えてくれるのだ。
「クリームシチューくらいでそんなにはしゃがないでくれる?普段の食生活の貧しさがばれちゃうでしょ」
遅れてきた母親が、冗談交じりに笑って言った。
「そんなことないです。いつもゆりちゃんが教えてくれるメニューは、どれもとても美味しそうですよ」
「うん、おいしーの。あのね、ニンジンもね、お星さまとか葉っぱになってね。おっきいお鍋でいっぱい作るの。お部屋じゅういいにおいだよ」
陽深の足に巻きついて、一生懸命に説明する。
「へえ、すごいな。ごちそうだ」
「絵描きさんもいっしょに食べようよ」
笑って応えた陽深の袖を引いて、無邪気に言った。
「え?」
「こら、急になに言い出すの」
母親が慌ててたしなめる。言われた陽深の方もびっくりした。いくら世間の常識に疎い陽深とはいえ、それはさすがにまずいと思う。
「ごめんね、ゆりちゃん。今日はこれからご用があるんだよ」
「だめなの?」
「また今度ね」
泣きそうな顔になる。
「無理言わないの。おいで」
「やっ!」
差し出された母親の手を避けて、陽深の足にしがみつく。
「いいかげんにしなさい。怒るわよ、ゆり」
怖い顔をしてみせる母親に、余計陽深に巻きついてぐずりだす。
「じゃあ、今日はお家まで一緒にお散歩しようか?」
仕方なく、陽深はゆりを抱き上げて言った。
「ほんと?」
「そのかわり、いい子でお手伝い出来るよね。ご飯はまた今度」
「うん!」
機嫌が直ったゆりを抱いたまま、母親に向かって言う。
「すみません、勝手に…」
「こちらこそ。ごめんなさい、無理言って」
「いえ、ちょうど気分転換にぶらぶら歩こうかと思ってたんです」
「あのマンションの五階なんです」
彼女が指差したのは、閑静な住宅街に建つ、まだ新しい瀟洒なマンションだった。
エントランスの付近まで来て、陽深は娘を下ろした。
「じゃあ、ゆりちゃん、またね」
「どうも、ありがとうございました。わざわざこんなところまで。今日は主人の帰りも遅いので上がってもらえませんけれど、よかったらほんとに一度ゆっくりいらして下さいね」
まんざら社交辞令というわけでもなく、親しげな笑顔で母親が言う。
「ママ、お手紙」
ゆりが、玄関脇にある各部屋ごとの郵便受けを指差した。
「はいはい」
彼女は子供の手の届かない一番上の郵便受けから、手紙を抜き取った。
それじゃあと頭を下げて行きかけた陽深の視線が、ふとその名札の上にとまる。
「広瀬、…さん?」
「はい。――ああ、そうか。まだ名前も言ってなかったんですね」
そこには、広瀬隆尚。涼子。優里。と小さく書かれていた。
「広瀬涼子です。――あの」
呆然と名札を見つめている陽深に、涼子が声をかける。
「あ、すみません。川合です、川合陽深」
混乱した陽深は、それだけ言うのが精一杯だった。
「あの、じゃあこれで」
「優里、バイバイは?」
「ばいばい、絵描きさん。またね」
無邪気に手を振る優里から、遠ざかる。
陽深は、これがいったいどういうことなのかわからないまま、逃げるように自分のアパートの帰りついた。
(ゆりちゃんて――、そうか、広瀬さんの娘さんの、優里ちゃんだったんだ――)
力なく床に座り込んだ陽深は、自分のバカさ加減に呆れた。同じ名前、同じ年頃、なのに考えもしなかった。土地鑑のない陽深は、いつも出かけていた河原が彼の家の近所だということもわかっていなかった。
幸せそうな、親子連れ。きれいな優しい奥さん、可愛い娘。以前、広瀬が話したとおりの。
そこに広瀬が加われば、まさに絵に描いたような「家庭」――。その想像は、なぜか陽深の胸を軋ませた。
警告なんだ、これは――。
もう、広瀬とは会わない方がいい。一刻も早くここを出た方がいい。
けれど、陽深は膝を抱えたまま、動けなかった。――ただ時間だけが、過ぎていく。
どれくらい、そうしていただろうか。陽深は小さく溜め息をついた。
――あの河原には、もう行かない。彼女たちに会いそうな場所には絶対に。
その日の会社帰りは、飲み会だった。支店全体の新年会はあったが、広瀬の課は平均年齢も若くみんな仲がいいこともあって、二課の連中だけで別に新年会をしようということになっていたのだ。
仕事帰りのサラリーマンでごった返す居酒屋。広瀬たちのグループは明るい連中ばかりで、盛り上げ上手の長谷川もいるのに、なぜかその日は、やけにうるさい周りの雰囲気からは完全に浮き、妙な空気が漂っていた。なにかあったのかと訝しく思い始めた広瀬に、女子社員の高橋が思い切ったように言った。
「課長、あの――佐々木課長の件、どうなりました?」
広瀬は驚いて一瞬返事に詰まる。
「出ませんでした? 今日の会議で、その話」
遠慮がちにではあるが、真剣な顔で訊いてくる。
今日の午後行われた会議は課長以上の役職会議だったので、彼らは会議の内容までは知らないはずだった。
「本当は、明日の朝礼で発表になるはずなんだが、――まあ、構わんか。三課の佐々木課長は北九州支店に転勤になった。急な話だが、来週早々には異動になるらしい。けど、なんでおまえらが知ってるんだ?」
「なに言ってんですか、会社中の噂じゃないですか。佐々木課長の不倫騒動。だから左遷になったんでしょう?」
一応声を顰めて、長谷川が言った。
「そうなのか?」
えらく急な異動だとは思ったが、とくに左遷といえるほどの降格ではなかった。けれどそう言われてみれば、今日彼は終始無言で、異動の理由もはっきりとは聞かされなかった。
「え、知らなかったんですか? この間、サッシ部の香川さん、退職したでしょう? 彼女がその相手だったらしいんですけど、なんでも――、その、彼女妊娠してたらしくて、会社では噂になるし、奥さんにもバレて、修羅場だったらしいですよ」
長谷川が、ちらりと高橋の顔色を伺いながら言った。
「いい気味だわ。ううん、いっそのこと首になっちゃえばよかったのに。美佐だけ辞めさせられるなんて不公平よ。大体被害者は美佐なのに男ってずるい」
高橋はどうやら香川と友達だったらしく、真剣に腹を立てているようだった。
「そりゃ香川も可哀想だけど、妻帯者だって初めからわかってたことだろ。俺は佐々木課長に同情するよ。もうこの先帰ってこれるかどうかわかんないし、絶対向こうでも噂になってるから、針のむしろだぞ。あの歳じゃ会社辞めて出直しきかないしな」
長谷川が、しみじみ言う。
「自業自得じゃない。大体、大の男が責任もとれないくせにいい加減な気持ちで若い子に手出して、奥さんと別れるみたいなこと言って。結局別れる気なんかなかったくせに、詐欺じゃないそんなの!」
長谷川の言葉に、高橋が激昂して言った。
男と女とでは、かなり見方に差があるらしく、女性陣と男性陣とで意見が対立していた。アルコールが入っているせいか話がだんだん白熱してくる。形勢が不利になってきた男性陣が、それまで黙って聞いていた広瀬に水を向ける。
「でも、だれでも一度くらい、恋人や奥さん以外の女の人に惹かれるときってありますよねぇ、課長」
「――ああ」
思わず応えた広瀬に、女性陣の矛先が一斉に向いた。
「えー! 課長までそんなこと言うなんて。すごく幸せそうな家庭で憧れてたのにぃ」
「なに言ってんだよ。実際問題、課長が不倫してるわけじゃないだろ。男には、そういう部分もあるって話。ね、課長」
「ああ、そうだな――」
広瀬は曖昧に頷く。「ふりん」という言葉の響きに、どきりとした。
『不倫』――なのだろうか。陽深との関係は。
「じゃあ、課長は他の女の人と浮気したいって思ったことあるんですか?」
高橋が詰め寄る。
「いや、それは思ったことないな」
これは、本当だった。広瀬は自信を持って答えられる。魅力的な女性を、魅力的だと思うこと自体は自然なことだが、それがそのまま浮気願望とはいえない。他の男はともかく、広瀬は本来そんなにマメなタイプではなかった。
「そうですよねー、だって浮気する理由がありませんよね。涼子さんみたいな素敵な奥さまがいらっしゃるのに。私、涼子先輩に憧れてたんですよ。美人で優しくて、てきぱきしてて」
高橋は安心したのか嬉しそうに言った。彼女は今の二課の女子社員の中では、唯一直接涼子を知っている人間だった。他の営業の男たちもその点については異存がないらしく、羨ましそうに同意していた。
「そりゃ、広瀬課長のとこは絵に描いたような理想の家庭ですけどね~。浮気の理由は家庭の不満とは限りませんよね~? 恋っていうのは、こう突然ぱあっと、訪れたりするんですっ! ねっ、課長!」
酒に弱い長谷川は、もう酔ったのか、広瀬に絡んできた。
広瀬は一瞬、息をのんだ。
「人間、誰だって間違いはありますよ。そんなに佐々木部長ばっか責めたら可哀想っしょ。彼もそのときは真剣だったかもしれないし。うん、いろいろありますよ、人生ってのは」
どう見ても酔っ払っている長谷川だが、なぜか言っていることは筋が通っている。
「こら長谷川、課長に絡んでどうする。弱いだから、加減しろよ」
同僚に言われて、絡んでないとぶつぶつ言いながらも引っ張られていく。
結局、その日の飲み会は、なんだか後味の悪いままお開きになった。
今夜は、広瀬は来ない。
陽深はアパートの部屋の窓を開けて、川の流れる静かな水音に、ぼんやりと耳を傾けていた。特に趣味も無く、TVさえほとんど見ない陽深だが、暇を持て余すようなことはこれまでなかった。
ただ、こうしてじっとしていれば時間は過ぎていく。なのに、広瀬に会えないこんな夜は、なぜだかとても長く感じた。
そして、音の無い陽深の部屋に、アパートの階段を上がるゆっくりとしたリズムの足音が近づいてくる。足音は止まり、軽いノックの音に変わった。
「いるのかね、早川だが――」
陽深は意外なその声に、我に返って慌ててドアに向かう。開いた扉の向こうには、恰幅の良い初老の男性が立っていた。品の良いダブルのスーツに身を包み、体格のいい欧米人とは違った意味で堂々と着こなしている。半分以上白くなった髪もすっきりと整えられ、笑顔を湛えていてもどこにも隙の無い、成功した実業家そのものの容姿。
「早川さん。どうなさったんです、こんなところにわざわざ」
驚いた顔の陽深に、
「こっちへ来るついでがあったのでね。――上がっていいかな」
早川は、ちらりと中を見て言った。
「あ、ええ。すみません、どうぞ」
部屋に上がった早川は、八畳一間の簡素な部屋を、珍しそうに見回している。
画商である早川は、美大時代から陽深の才能を認めていた春日教授の友人で、名のあるコンクールに出品することも画廊に売り込むこともしない無名の川合陽深を、援助し育てた後援者といって良かった。
今まで陽深は家がないに等しい状況で、彼と会うときは早川の画廊か、外でだった。東京近郊にいないときは、絵の受け渡しですら会うこともなく、陽深は描き上がった絵を早川をところへ郵送するだけで、絵の売買に関することはすべて早川に任せていた。
それは、早川を信頼しているからというよりも、絵が売れようと売れまいと、どんな値段がつけられようと、陽深にとってそれはどうでもいいことだからで、絵を描いて食べていけるだけの収入があれば、それで充分だった。
それでも、陽深の口座にはいつも彼には使いきれないほどの金額が振り込まれている。
「ここの暮らしが気に入ってるのかね」
「え?」
「いや、君がここにアパートを借りたというのを聞いてね。つい気になって邪魔してしまったが、――ここには、君を引き留めるなにがあるんだろうね」
いつも落ち着いた物腰の早川が、珍しく少し戸惑ったような微笑を浮かべて言った。
曖昧に、ただ微笑むだけの陽深に、早川が続ける。
「絵の方は、どうなってる?」
陽深は、壁に立て掛けてあった10号のキャンバスを、早川に渡した。
蒼い夜。銀の月。どこまでも続く銀杏の道。ひとつひとつは生真面目なくらい写実的なのに、全体をみると、どこか幻想的で不思議な印象を与える風景画。
「ああ、いい絵だ」
早川は、いつものようにそう言って頷いた。
彼はいつも、渡された絵にはどんな批評も加えずにただそう言って受け取るだけなので、陽深には早川がその絵を気に入っているのかどうか、正直よくわからない。
「他には?」
「――それだけです」
陽深の答えに、早川が驚いた様子で訊き返す。
「これ1枚だけ?」
「すみません」
思わず謝ってしまった陽深に、早川は首を振って続ける。
「いや、催促しているわけじゃないんだよ。ただ、驚いただけだ。今までのきみのペースを考えるとね。だが、――スランプ、というわけでは無さそうだし」
彼は手にした絵に目を遣りながら、そう言った。
「なんだか、描きたいという欲求が、最近あまり湧かなくて…。自分でも戸惑っています」
陽深は、言いにくそうに答える。
「そうか――。君がここにいる理由は、絵ではないんだね。よほどインスピレーションを感じるところなのかと思っていたよ。この古い街は」
早川は、ちょっと考えるように間を置いて、続けた。
「まあ、でも構わんさ。かえって君自身のためには良いことなのかもしれない。絵を描くことだけが人生じゃないからね。――まだ若いのだし、いろいろなことに興味を持った方がいい。きっと、そういう時期なんだろう。そうした経験はいずれ、これからの君の作品にも何かを与えてくれるはずだよ」
うわべだけでなく、心から言ってくれているような早川のその言葉は、陽深には意外なものだった。画商である早川にとって、絵を描けない今の自分はあまり意味の無い存在のように思っていた。
「そうでしょうか」
「ああ。だから焦る必要はないし、私に気を遣う必要もない。しばらくゆっくりするといい。生活費の方もしばらくは大丈夫だろう?この絵の代金もすぐ振り込んでおくよ」
「そっちの方は、十分すぎるくらいです」
陽深は早川の言葉に慌てて首を振った。そんな陽深を見て、早川はふと表情を綻ばせて言う。
「しかし、君に絵を忘れさせることができるものが、あるとはね。――君が絵を描くのは、野心からでも仕事だからでもない。そんなものからこんな作品は生まれない。それぐらいは、凡庸な私でもわかることだ。けれど、ただ好きだからという理由だけではないよう気もするんだがね…」
最後の方は、まるで独り言のように呟く。
「どうして絵を描くのかなんて、考えたことはないですけど――。この間、とてもきれいな雪景色を見たんです。滋賀の方まで足を延ばして」
陽深は思い出すように目を伏せて、話し出す。
「静かで、早朝の身を切るような冷たい空気すら心地よくて、雪の白と、湖の青と空の青と、言葉では表現出来ないくらい美しい光景でした。いつもなら、描かずにはいられないくらい。切なくなるほどの――。けれど、そんなとき誰かがそばに同じ気持ちでいてくれるだけで、きれいだねっていう一言だけで、満たされることもあるんですね」
そう言って微笑んだ陽深の表情は、今まで早川が見たことのない幸せそうな笑顔だった。
「そのとき、なんとなく思ったんです。誰かにそう伝える言葉の代わりに、僕は描いているのかもしれないって」
陽深はそう言うと、照れたように微笑って、それだけではないでしょうけど、と付け足す。
それを聞いた早川は、納得したように言った。
「――そうか、そういうことだったのか。それなら、絵を描くどころではなくなるだろう。いいね、若い者は。そんな君を見られるなんて、嬉しいよ。――いらぬ世話なのはわかってはいるが、気に掛かっていたんだよ、私も春日教授も。君は礼儀正しいし、素直で優しい人間なのに、目に見えない箱に入っているような、そんなどこか人を寄せ付けないところがあったから。――けれど、今夜のきみはなんだか無防備にみえる」
陽深は、画商としてではなく、陽深の身近な人間としての早川の笑顔を、初めて見たような気がした。それとも、今まで気づかなかっただけなのだろうか。干渉したり、言葉に出したりしなくとも、見守ってくれている人が、自分にもいたのだろうか――。
「実は、こっちに来たのは君の個展の件でね」
早川は、画商の顔に戻って言った。
「関西ではまだちゃんとした個展を開いたことがなかっただろう? 君も今こっちにいることだし、ちょうどいい時期かなと思ってね。目をつけていた神戸のギャラリーが借りられそうなんでね。比較的広い会場だし、近々展覧会も兼ねてやろうと思っているんだよ。それで、新作が何点かあれば、と思っていたんだが」
「すみません」
「いや、気にしないでいい。今までの分で十分間に合うんだから。どちらかというと、私が個人的に新作を楽しみしていたと言ったほうが正しい。仕事に託けてね。展覧会を兼ねるのも、手放したくない作品が多いからなんだよ。――まあ、せめて大勢の目に触れる努力ぐらいはしないとな」
早川は苦笑してそう言った。
「また詳しいことが決まれば連絡する。ほとんどこちらに任せてもらうことになると思うが、二、三きみの手を煩わせることがあるかもしれん。すまんがそのときはよろしく頼むよ」
「ええ」
「あと、君はこういうの煩わしいだろうが…」
早川は、通信会社のロゴの入った紙袋を陽深に差し出した。
「…携帯電話ですか?」
「ああ、スマートフォンだ。機能もシンプルで分かりやすいものにした。仕事用と割り切って持ってくれないか」
「そうですね。――すみません、いろいろご面倒お掛けして。ありがたく使わせていただきます」
陽深は、素直に受け取った。ホテルを出て、電話もないアパート暮らしでは早川から連絡のとりようがない。そのせいでわざわざここまで来させてしまったのだろうと、陽深は申し訳ない気持ちになる。
「それじゃあ、遅くに邪魔をしてすまなかったね。――そろそろ失礼するとしようか」
そう言って早川は、そのまま戸口へと向かう。彼がノブに手をかけたとき、陽深はその後ろ姿に思わず声をかけていた。
「あの――」
振り向いた早川に、陽深は言葉を探す。
「今日は、どうも、ありがとうございました」
それだけ言って頭を下げた。思わず声をかけてしまったが、なにを言いたかったのか、自分でもよくわからない。
「――落ち着いたら、いちど春日教授のところへも顔を出してやりなさい」
早川は笑みを浮かべてそう言うと、静かにドアを閉めた。
陽深が早川から渡されたスマホには、早川の電話番号と、恩師だという大学教授の番号が予め登録されていた。
使い方が分からないという陽深に、広瀬は一から説明しながら、自分の番号を登録してラインも登録した。
すごいですね、ドラえもんの秘密道具みたいだと云った陽深の顏を思い出すと、今でも笑みが浮かんでしまう。
広瀬は会社のデスクから、陽深に電話をした。
「今日は七時までにはあがれそうなんだが、出てこれるか? ――じゃあ、七時に南座の前で」
約束だけして、すぐに電話を切る。
ここニ、三日会えなかった。たったそれだけのことで不安になる。ふと気がつくと陽深のことを考えている。本当は毎日会いたい。ほんの一瞬顔を見るだけでも。まるで禁断症状みたいだと、広瀬は自分でも可笑しくなった。
少し離れた席から、しっかり聞き耳をたてていたらしい長谷川が声を上げる。
「あ、課長デートですかぁ?」
「なに言ってんだよ」
「怪しいなあ」
「学生時代の友人と久しぶりにあうんだよ」
ふざけた調子の長谷川を軽くかわすが、彼もなかなかしつこい。
「えー、言い訳するところが怪しい」
「嘘だと思うならついてくるか? 来てるのは男だぞ。たまには長谷川に奢ってもらうのも悪くないな」
「あ、ははは――。遠慮しときます」
素直に引き下がってくれて、広瀬がほっとしたとき、
「なに邪魔してるの? 長谷川くんは課長の浮気賛成なんでしょ」
横で聞いていた高橋が冷たく言った。
「え? なにそれ」
「おとといの飲み会で言ってたじゃない」
「知らねー。そんなこと言ったっけ? 俺」
「もう! 信じらんない。男だったら言葉に責任もってよね」
仲が良いのか悪いのか、言い合いをしている二人を残して、広瀬はそそくさと席を立つ。
「それじゃあ、得意先回ってそのまま直帰するから。なんかあったら携帯にな」
広瀬はそれだけ言い置いて、さっさと出掛けた。
七時に待ち合わせの場所に行くと、いつものように陽深は先に来て、所在なげに立っていた。最近は、広瀬が陽深のアパートに直接立ち寄ることが多く、こんなふうに外で待ち合わせたのは久しぶりだった。
「ごめん、待たせたね」
「いいえ」
現れた広瀬に、一瞬ぱっと顔をほころばせたが、陽深はすぐに視線をおとす。
「どうかした?」
「いえ――」
どこか沈んだ様子が気になったが、広瀬は陽深の肩を抱いて、押し出すように歩き始めた。
「今日は冷えるな。鍋にしようか」
顔を覗き込んで明るく言う広瀬に、陽深も笑って頷いた。
食事の後、広瀬はタクシーを拾って静かな住宅街の外れへと向かった。着いたのは、『Rondo』と書かれた、古ぼけた看板のかかる小さいながらも洒落たつくりの洋館。バーのようだった。
広瀬は、大きな厚い木の扉を押して入ってゆく。中は、琥珀色に柔らかく照らされた落ち着いた雰囲気。陽深は、広瀬の後ろについて、物珍しそうに周りを見渡している。外国の探偵小説か映画に出てくるバーのようだと思った。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね、広瀬さん」
カウンターの中から笑顔で迎えるバーテンダーは、大学教授のようなインテリっぽい雰囲気の年配の男性だった。二人はカウンターの中ほどの席に腰掛ける。彼らの他に、客はいない。
「良かったよ、開いてて。来てはみたものの、閉まってたらどうしようかと思った」
「運がよかったですね」
広瀬の言葉に、マスターは他人事にようににこにこと言った。
「ここって不定休でマスターの気が乗らないと休みになるんだよ。場所もこんな住宅街の外れにあるし、前から連れてきてみたかったんだけど、なかなかね」
広瀬は苦笑して云った。
「素敵なところですね」
陽深は嬉しそうに微笑って言った。 陽深はもともと出歩く方ではないし、酒も多少は口にするが特に好きというわけではない。
普段広瀬が行くありきたりの場所がかえって陽深には目新しく新鮮に映る。二人で鍋をつついたり、賑やかな大通りを歩いたり、そんな些細なことで彼は無邪気に喜んだ。広瀬はそんな陽深の笑顔が見たくて、こんなふうに彼を連れ出す。陽深がそれを楽しいと思えるのは、一緒にいるのが広瀬だから。その一番大事な部分には気付かないままに。
「何をおつくりしましょうか」
「僕はいつもの水割りで。彼には、なにかカクテルを。種類はよくわからないから、マスターに任せるよ。あまり強くないやつで」
店主は慣れた手つきで用意を始める。
「この店は、マスターが定年後の趣味って云うか、道楽でやってる店でね。さっき云ったような状況だから、いつもすいてるし、客も常連ばかりだ。2年くらい前からかな、偶然知って、ときどき来るようになったんだ」
陽深は黙って広瀬の話を聞いていた。暖かな淡い灯り、少しトーンを落として話す広瀬の声、肩が触れる距離で。低く流れるBGMに、マスターが振るシェーカーの軽い音が響いている。
陽深は、穏やかに自分を見つめている広瀬に、自分が涼子たちと知り合いだということを言うべきだろうかとふと思う。
もう彼女たちとは会わないつもりだったし、黙っていればそれですむことのような気もした。けれど――。
「どうぞ」
すっと、陽深の前のコースターにグラスが置かれた。細長い薄い硝子のなかの、紅い透きとおった液体。紅から橙色に変わってゆく微妙なグラデーション。
「きれい」
口をつけずに見とれている陽深に、マスターが言った。
「アルコールは少しだけしか入ってませんし、飲みやすいですよ」
「へえ、綺麗な色だね。なんていうカクテル?」
広瀬が、マスターに聞いた。
「シャーリーテンプルです」
陽深がグラスにそっと口をつける。
「おいしい?」
広瀬が覗き込んだ。
「ええ、とても。お酒じゃないみたい」
「甘そうだな」
「飲んでみます?」
陽深が差し出したグラスに手を添えて、広瀬は口をつけた。
「旨いけど、ほんと酒じゃねーなこれ」
辛党の広瀬は、眉を寄せる。
「飲んでみるか?」
広瀬は自分のグラスを持ち上げると、答えがわかっていて聞く。陽深は顔を顰めて、首を振って見せた。広瀬の水割りはいつも、銘柄はなんにしろいつもバーボンのダブルだ。陽深には、飲めた代物ではない。陽深はたいてい、口当たりのいいワインか、薄い水割りだった。
そんな二人のやりとりに、黙って立っていた店主がさりげなく口を開く。
「初めてですね、お連れの方といらっしゃるのは」
「そうだったかな」
「ええ」
広瀬くらいの年代になると付き合いと云えば酒で、人と会うのも自然とそういう場所になる。けれどときには、社交の道具としてではなく、ひとりで純粋に酒そのものを楽しみたいときもある。ここは広瀬にとってそういう秘密の場所だった。ここに連れてくる気になったのは、陽深が初めてだ。
「思いついたときにふらっと寄りやすいからだよ。マスターの酒は旨いしね」
そんな感傷的な思いが気恥ずかしくて、広瀬はわざと素っ気なく言った。
「ここは広瀬さんにとって、とても居心地のいい場所なんですね」
陽深はなにげなくそう呟いた。おっとりとしていて、一般常識に疎いようなところのある陽深だが、不思議とときどき広瀬の気持ちを見透かしているかのような反応を見せるときがある。
思わず陽深を見つめてしまった広瀬に、陽深が微笑んだ。
「嬉しいです。僕もこの店、好きですよ」
そんなささいな陽深の言葉に、広瀬は言いようのない愛しさで胸が詰まる。
「なにか、弾きましょうか?」
マスターが、にこやかにそう言って、店の奥にある古びたグランドピアノを目で示した。
「え?」
驚いて見上げる陽深に、横から広瀬が囁く。
「こう見えても、マスターのピアノはプロ級なんだ。よっぽど気が向いたときにしか弾いてくれないけどね」
陽深の言葉は、どうやら店主にとっても嬉しいものだったらしい。
「あまり技巧的なのはもう年なので難しいですが、スタンダードなナンバーなら、ジャズでもクラッシックでも歌謡曲でも。なにかリクエストはありませんか?」
急に云われて、陽深は戸惑ったように広瀬を見る。
「せっかくだし、遠慮せずになにか好きな曲があれば言ってみれば?」
陽深はちょっと考えるように首を傾けて、
「じゃあ、――トロイメライを」
比較的ポピュラーなその曲名を口にした。
シューマンのピアノ曲、『子供の情景』のなかの一篇。ドイツ語で「夢」という意味の。
それを聞き、マスターはカウンターを出てピアノに向かう。蓋を開け、色あせたビロードの椅子に浅く腰掛けて、静かに手を添えた。
そして、ふわりと舞い降りる指先、零れ出す音。眠りを誘うような、優しい旋律。
二人はカウンターを背に、寄り添うように座っている。マスターの指先から、年を経たピアノから、紡がれる“夢”。耳を傾ける陽深の頭を、広瀬がそっと引き寄せた。陽深は広瀬の肩に頭を預けて、目を閉じる。
舌に残る甘いカシスの匂い。髪に触れる広瀬の手の温かさ。微睡むような、優しい時間――。たとえほんのひとときでも、この優しい時間は自分のものだと、ここに居てもいいんだと、陽深は思いたかった。
優しくて、せつなくて、――そして、やがて静かに終わる“夢”。いつまでも、消えない余韻を残して。
「ここでいったん停めてください」
二人の乗ったタクシーが、陽深のアパートの前で停まる。
別れる時間が近づくにつれ、ぎこちなくなる空気。訪れる沈黙。二人は帰りのタクシーに乗り込んでから、ほとんど言葉を交わさなかった。
「じゃあ――」
開けられたドアが合図のように、陽深はするりと車を降りる。
「おやすみなさい、気をつけて」
目を伏せたまま、呟くように言う陽深。広瀬の顔は見ない。引き止める言葉を抑えこむために。
「ああ――、おやすみ」
音を立てて閉まるドアに遮られ、途切れる言葉。走り出したタクシーが、二人を引き離してゆく。
去ってゆく車に、陽深がようやく目を上げた。振り返って見ている広瀬と、視線が絡まる。見送るだけの寂しい瞳。リアウィンドウに小さくなる、置いてきぼりの子供――。
「――すみません! 停めてください、降ります」
考えるより先に、言っていた。
陽深は、突然停まった車から走って戻ってきた広瀬を、戸惑いがちに見上げる。
「広瀬さん――」
「やっぱり、寄っていっていいかな」
弾む息でそう告げた広瀬の肩を、ふいに抱きしめた細い腕。思いがけない激しさで。
ただ、そばにいる。簡単な、たったそれだけのことが、彼の求めるすべてなのだと、広瀬はようやく気がついた。
「カーテン、買わなきゃな」
広瀬は陽深の肩を抱いたまま、ぽつりと言った。
「ん――」
広瀬の体温を感じながら眠りに落ちかけていた陽深は、ふいに現実に引き戻される。
がらんとした部屋に敷かれた、一組の布団。白いシーツの上の二人を照らすように、街灯の仄かな明りが窓から落ちてくる。
陽深は黙ったまま、広瀬に背を向けて寝返りを打つ。
枕にした広瀬の腕。視線の先には、淡い光を照り返す腕時計のメタル。文字盤の部分はちょうど下になっている。
「陽深?」
不意に腕を掴まれて、広瀬が陽深の方に顔を向ける。陽深は広瀬の手首を持ち上げて明りにかざす。12時を少し過ぎてしまっていた。いつもならもう、とうに帰っている時間。
彼は日付が変わる前には、必ずこの部屋を出る。
広瀬は陽深の動作の意味に気付くと、背を向けた陽深ごと腕を引き寄せる。そうして横たわったまま、腕時計に手を伸ばした。陽深はそれをぼんやりと眺めていた。
広瀬はいつも、腕時計を外さない。帰る時間が近づくと時折さりげなく時計に目を遣る。そして云うのだ、もうこんな時間だ、と。
けれど今夜は、広瀬は時計を外そうとしている。外して、文字盤をかざす。
「もうこんな時間か――」
陽深は目を閉じて、体を固くする。
「そろそろ眠らなきゃな」
そう云いながら、広瀬は枕もとに時計を置いた。
「広瀬さん――」
驚いて、体を起こす陽深。
「ん?」
伸ばされた手が、陽深の頬を包む。
陽深は、なにも言えずに、広瀬の胸にことりと頭を落とした。
規則正しい呼吸、上下する胸は揺り篭のようで、鼓動は子守唄のよう。どんな毛布より温かい人肌は、考えることを妨げる。
罪悪感を捨て去ることは出来なくても、目を逸らすだけなら、こんなにたやすくできてしまう――。
陽深はそのまま、そっと、目を閉じた。
(まだ、今は、“夢”の続きなんだ…)
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