『はい、森井商事でございます』

 営業用の柔らかい女性の声。

 「お忙しいところ恐れ入ります。あの、広瀬と申しますが――」

 涼子は努めて冷静な声を作る。

 『涼子? 久しぶりじゃない、どうしたの』
 「理香?」
 『そうよ。あ、番号間違えたの? 経理課よ、これ。二課に回そうか?』
 「ううん、いい。彼、来てるの?」
 『ダンナ? 来てるわよ。いつもどおり』
 「そう、――ならいいの」
 『――なんかあったの?』

 理香が、心配そうに声を潜めて言った。彼女は涼子とは同期で仲がよく、涼子が結婚して会社を辞めてからも、たまに連絡を取り合っている。

 「ううん。朝少し出るのが遅れたから、ちゃんと間に合ったかどうか心配だっただけ」

 涼子は用意していた言い訳をする。

 『ほんとに?』
 「うん。あ、隆尚さんには言わないでね。それくらいのことで電話するなって叱られちゃうから。みんなにも」
 『わかった。――けどなにかあったら言ってね。相談に乗るから』
 「大丈夫よ、ほんと、何もないの。――ありがとね。それじゃあ、ごめんね仕事中に」

 受話器を置いて、涼子はぽつりと呟いた。

 「ちゃんと行ったんだ、会社」

 電話の前に座り込んだまま、動けない。昨夜から、ずっとこの体勢のまま。玄関の鍵も開けたままだった。何度かけても電話に出ない。ラインも見ていない。
 涼子は、どこかで事故にでも遭っているのだろうかと心配していた。――つもりだった。無事に会社に出社していると聞いて安心していいはずなのに、と思う。けれど、どうしようもないこの失望感。

 やっぱり、彼は浮気をしているのだ――。

 涼子はやっと、無意識に打ち消しながらも、自分がずっとそれを疑っていたことを自覚する。
 たとえば、ほんの些細なことの積み重ね。帰りが遅くなった。詮索を嫌うようになった。会話が減った。そして、――今思えば不自然だった、あのゴルフ旅行。そう、あの頃からじゃなかっただろうか、なにか様子が違ってきたのは――。
 涼子は、どんどん深く思いの底に沈んでいく。
 具体的にどこがどうというのではなく――、言葉にするとしたら、遠くなった、と言えばいいのだろうか。広瀬の気持ちがどこにあるのか、掴めない。夫婦とはいえ、別々の人間なのだから、心まで読めないのは当たり前だ。
 それでも、お互いに理解しあい、わかり合っているような気がしていた。今までは。
 だけど――。
 事故でもなく、病気でもなく、何の連絡もなく一晩中帰ってこなかった。浮気を疑わずに何を疑えというのだろう。
 涼子は思わず両手で顔を覆い、詰まる息を吐き出す。

 (まだ、――わからない。そうよ、ばかね、きっと私の思い過ごしよ。彼に聞けばわかることだわ。きっと何か事情があったのよ。そうよ、ちゃんと聞かなくちゃ。ちゃんと、話さなくちゃ――)

 涼子は、自分の妄想を振り払うように、勢いよく立ち上がった。




 マンションの部屋のドアの前で、広瀬は二度目の溜め息をついた。
 結局なんの連絡も入れず、外泊。ラインも電話も、無視した。とりあえず、陽深の家から直接会社へは出たが。
 涼子に、いったいなんと言えばいいのか――。
 そればかり考えて、今日は一日中仕事にならなかった。それでも広瀬は、この期に及んでもまだ、マシな言い訳が思いつかない。かといって、いつまでもこんなところで立ち尽くしているわけにもいかず、――広瀬はドアのノブを回した。
 ドアを開けると、

 「お帰りなさい」

 駆け寄ってきた涼子が、いかにもほっとした顔で立っている。

 「――ただいま」

 ばつが悪そうな様子の広瀬を迎え入れて、エプロン姿の涼子はキッチンへ向かった。

 「心配したのよ。どうしたの?いったい」

 涼子は広瀬の方を見ずに、問い詰める口調にならないよう気をつけながら言った。

 「ああ、すまなかった。その、昨日帰りに部下から相談を持ちかけられて飲みにいったんだが、――家庭内の深刻な話だったんで、途中で電話をするのもなんだか、気が引けて…。悪かった、黙って家を空けたりして」
 「そう…」

 広瀬の苦しい言い訳に、涼子は背を向けたまま答える。

 「朝まで、――飲んでたのね」
 「ああ」
 「――なんだ、朝会社からでも連絡くれればよかったのに。事故にでもあったんじゃないかって心配しちゃった」

 涼子は振り向くと、笑顔を作って言った。

 「そうだな、ごめん心配かけて」

 広瀬は、涼子から目を逸らしたまま、言った。
 涼子は台所に向き直ると、包丁に手を伸ばす。まな板の上には、刻みかけのキャベツ。

 「ご飯、すぐ出来るから」
 「優里は?」

 部屋を見回して、広瀬が言った。

 「三階の山中さんのところ。可奈ちゃんと遊ばせて貰ってるわ」
 「こんな時間までか?」

 広瀬が時計を見ながら言った。もう七時を過ぎている。

 「そうね、――忘れてたわ。あなた迎えに行ってきて」

 キャベツを刻みながら、言う。振り返りもせずに、一定のリズムで切り刻み続ける。
 広瀬は黙って立ち上がると、優里を迎えに出て行った。




 もう陽の傾き始めた午後、陽深は久しぶりに河畔に下りていた。
 ここしばらく外へ出るのは食事と銭湯に行くときだけで、絵も描かずにただ電話を見つめ、広瀬の訪れを待っている。そんな自分が嫌で、行くあてもないのに無理に部屋を出た。
 あの朝、目を覚ますともう広瀬はいなかった。一人残されたがらんどうの部屋。広い窓から差し込む白々とした朝の日差し。引き止める勇気もないくせに、広瀬の優しさに甘えてしまう自分を、浅ましいと思った。
 川べりに座りこみ、冷たい水の流れに視線を落として、思う。
 これではまるで、――母と同じだ。
 顔以外、どこも似たところなどないと思っていた、誰よりも遠いところにいたはずの母と。
 陽深は立てた膝に顔を埋め、自らに言い聞かせるように呟いた。
 ――なにも、欲しいものなんてない。人の幸せを壊してまで手に入れたいものなんて、僕にはない。

 「川合さん?」

 不意にかけられた声に、びくりと顔を上げる。

 「奥さん…」

 少し離れたところに、涼子が立っていた。一人で。

 「大丈夫ですか? そんな薄着じゃ風邪引きますよ」

 そう云って近づいてくる涼子の方も、薄いセーター一枚にショールを羽織っただけの寒そうな姿だった。

 「お久しぶりですね。最近来ていなかったでしょう? あの場所に」
 「…ええ」
 「あの日以来、全然お見かけしなかったし、あのとき優里が無理言って送ってもらったりしたから…」
 「いえ、別にそれは、――もうあそこの絵は描きあがったので、家で仕上げをしてたんです」

 陽深は立ち上がると、慌てて言い訳をした。本当は絵なんて途中で投げ出したままだった。

 「そうだったの。よかった」

 そう云って微笑んだ涼子の表情はどこか沈みがちで、顔色も悪く、なんだか様子が変だった。そのまま、立ち去る様子もなく、黙って立っている。

 「今日は、優里ちゃんは?」
 「お昼寝してるわ」
 「一人で、ですか?」
 「ええ、よく眠っていたから」

 そうは言っても、まだニ、三歳の子供を置いて出てきたのだだろうかと訝しく思う。

 「小さい子供って、こっちが元気がときは可愛いけど、――なんか、煩わしいわ」
 「広瀬さん?」

 思いがけない涼子の言葉。気分の悪そうな様子に陽深が近寄りかけたとき、涼子の体がぐらりと傾いた。

 「大丈夫ですか!」

 支える陽深の腕に捕まって力なく頷く。

 「ごめんなさい、貧血かしら。――このごろ、よく眠れなくて…」

 上着も着ずに、足元はサンダル履き。ここは陽深のアパートのすぐ前で、広瀬のマンションからはかなり離れている。少なくとも、こんな格好でちょっと出るような距離ではない。

 「すぐ家に帰って休んだ方が、――送ります。大通りに出て、タクシーを」

 いくら避けていたとはいえ、こんな状況では放っておけなかった。

 「…大丈夫です。歩いて帰れますから」

 涼子はおぼつかない足取りのまま、河畔の遊歩道を一人で歩き出した。陽深は仕方なく、涼子を追って歩きだす。

 「川合さんって、独身でしたよね」

 先に立って歩いていた涼子が、ポツリと言った。

 「ええ――」
 「じゃあ、わからないかしら」
 「え?」
 「浮気する夫の心理」

 陽深は思わず立ち止まっていた。
 彼女は、なにもかも知っている?――まさか。

 「川合さん?」

 急に立ち止まった陽深に、涼子が訝しげに振り返る。陽深は慌てて歩きだした。このまま、逃げ出すわけにもいかない。

 「すみません」
 「誰でも、一度はあることなのかしら」

 黙ったままの陽深に、涼子は勝手に続ける。

 「ばかよね、私。あの人に限って、なんて勝手に思い込んでた」
 「その…、誤解じゃないんですか? ご主人が、――そう言ったんですか」
 「まさか。――でも、わかるのよそういうのって。間違いない」
 「でも…」
 「わかるのよ! だって――」

 彼女は両手で顔を覆うと、涙に震える声で続けた。

 「ずっと好きだったの。兄の親友だったあの人が、初めて家に遊びに来たときからずっと」

 陽深は、ただ黙って立ち尽くしていた。

 「そのときから、彼の奥さんになるんだって勝手に決めてたの。だから、結婚できてほんとに幸せだった。いい奥さんになろうって、一生懸命努力してたわ。でも――ほんとはずっと怖かった。先に好きになった方が、より愛している者の方が不安なのよ。――ただの浮気なら、戻ってきてくれるなら、見てみない振りも出来るけど」
 「もし本当にそうだったとしても、――きっと戻ってきてくれますよ」

 ふいに胸をせり上がってくる痛みに、喉が詰まる。なぜ、ここで自分はこんなことをしゃべっているのだろう――。陽深は思考の麻痺した頭で、漠然と思った。

 「いっときの感情より、大切なのは家族でしょう?」
 「でも、恋愛感情は理屈じゃないわ。遊びで浮気なんてできる人じゃない。優しい人だから――」
 「優しい人だから、あなたや優里ちゃんを捨てるはずがない――」

 最初からわかっていたはずのことなのに、口にすればそれは、目を背けようのない現実として、突きつけられる。

 「川合さん…」

 涼子は顔を上げて、縋るように陽深を見つめる。

 「ほんとに、――そうかしら?」
 「ええ」

 条件反射のように張り付いた、陽深の微笑み。

 「――やだ、ごめんなさいね。私、どうかしてるわ、いきなりこんな話をして…。でも、ずっと誰にも言えなくて、一人で考えてるとどんどん落ち込んじゃって」

 涼子はそう言って肩を竦めると、ぎごちなく笑う。

 「男の人にこんな話しても迷惑なだけなのはわかってるんだけど、なんか川合さんなら聞いてくれそうな気になって…。ごめんなさい」
 「いいえ――、それより、早く戻らないと」

 もう日も暮れてきた。冷え込みの厳しい川沿いのこの道では、いっそう風が冷たい。陽深は涼子を促して歩き出した。

 マンションの前まで来て、すぐに引き返そうとする陽深を、涼子が無理に引き止める。陽深は仕方なく部屋の前まで来たが、少しでも早くここを離れたかった。

 「優里も喜ぶし、少しだけでも上がっていって下さいな」
 「でも、もう夕食の支度もあるでしょうし、ご主人も――」
 「大丈夫よ。主人は遅いの、最近はいつも」

 思い出したように、涼子の表情が曇る。玄関先からの声に気付いて、優里が泣きながら飛び出して来た。

 「ママ!」
 「ごめんね、優里。――はいはい、一人で寂しかったのね」

 縋りついてくる優里を抱き上げてあやす。その間に立ち去ろうとした陽深を見つけ、優里が泣き止んだ。

 「絵描きさんだ!」

 手を伸ばしてくる優里に、仕方なく頭を撫でてやる。

 「こんにちは、優里ちゃん。いい子にしてた?」
 「うん!」

 涙の残る顔で、もうにこにこと笑っている。

 「おもちゃ出しっぱなしにしてない? 優里。お客さまだから、お片づけしてね」
 「はぁい」
 涼子の言葉に、優里は嬉しそうに中へ駆けていく。これでは、帰るに帰れなくなってしまう。

 「でも、ほんとにもう、――今日は、本当に用があって」
 「急ぐんですか?」
 「ええ」
 「そう…、残念だけど、仕方ないですね――」

 ようやく陽深がほっとしたそのとき、廊下の突き当たりのエレベータが、ちょうど五階で止まった。エレベータの方に目を遣った陽深は、降りてきた人影に立ちすくむ。

 「広瀬さん…」

 思わず呟いていた。

 「陽深――」

 降りてきたのは、広瀬だった。
 陽深の姿を認め、驚いて立ち尽くす広瀬の様子に、涼子は不思議そうに言った。

 「知り合い、なの?」
 「あ、いや」

 広瀬は、うろたえて言いよどむ。

 「すみません。じゃあ、僕はこれで」

 我にかえった陽深は、慌ててその場を離れようとする。すぐ横をすり抜けようとした陽深の肩を、広瀬は思わず掴んでいた。

 「あ、待って川合さん」
 「どうして君がここに」

 重なる二人の声を、食い込むような広瀬の手を振り切って、陽深が駆け出す。

 「陽深!」

 その背を追う広瀬。

 「隆尚さん――!」

 残された涼子は、何がなんだかわからないまま、ただ呆然と二人を見送っていた。

 「陽深!」

 エレベータの横の非常階段へ逃れた陽深だが、階段の途中で広瀬の腕に捕まる。広瀬は掴んだ陽深の肩を、踊り場の壁に押し付けて言った。

 「いったい、どういうつもりだ! なんでうちに」 

 荒い息と、反響のせいで、思ったより激しい言い方に聞こえる。滅多に人が通らないとはいえ、マンションの中だ。広瀬は声を落とそうと努力した。

 「広瀬さん、痛い」

 コンクリートの壁に押し付けられて、背中が軋む。陽深は、なぜ広瀬が怒っているのかわからなかった。

 「どうして、うちに来た? 涼子に何を言うつもりだったんだ」

 無理に抑えた、低い声音。ようやく陽深にも、意味がわかった。

 「なにを、――僕がなにを言うっていうんです?」

 陽深はまっすぐに広瀬を見据えて云った。

 「それは――」

 広瀬は口ごもり、掴んでいた手が緩んだ。

 「あなたのご主人は、僕と浮気していますとでも? 別れてくれとでも?」
 「――すまない、そうじゃない。――悪かった」

 広瀬は手を離すと、幾分落ち着いた声で云って、深呼吸のように深い溜め息をついた。
 陽深は冷たい壁に凭れたまま、そんな広瀬を見つめる。
 疲れた顔。優しくて、誠実で、身勝手な男。どんなに想っても、もうどうしようもない――。

 「もう、――終わりにしましょう」

 どうしても言えなかった一言が、自然に口をついた。

 「陽深?」

 何を言っているのかわからないと言いたげに、広瀬が陽深を見る。

 「すぐにでも、この街を出ます。二度と、あなたたちの前には――」
 「どうして!」

 陽深の言葉を遮るように、広瀬が声をあげる。

 「今なら、間に合います。なにもなかったことに出来る。このまま、――奥さんのところに戻ってください。なにもないと、愛しているのは君だけだと…。それで、元通りです。あなたは、――もとの生活に戻れる」

 言葉を無くした広瀬の腕から、陽深がすっと身を引いた。

 「陽深…、だめだ、そんなつもりじゃない、なかったことになんて――」

 戸惑いがちに伸びてくる手を、陽深はどこか現実感に欠けた意識でぼんやりと見つめていた。
 その腕も、肩も、瞳も、匂いも、体温も、永遠に自分のものにはならない。自分のもとにあるのは幻でしかないのだと、もうとっくにわかっていたのに――。

 「さよなら」

 陽深は、はっきりと告げた。
 宙でとまる、広瀬の腕。脇をすり抜けて、陽深は階段を駆け下りる。
 陽深は、母親のようにはなりたくなかった。幻に取り憑かれ、淋しさに連れていかれた、――あの母のようには。





 「隆尚さん!いったいなにが ――」

 戻ってきた夫を問い詰めようとする涼子。だが、広瀬はどんな言葉も耳に入らない様子で、無言でリビングのソファに腰を下ろす。
 いつもと違う張り詰めた空気に怯える優里を宥めながら、涼子が子供部屋に連れてゆく。
 広瀬は、混乱していた。この状況にも、陽深からの突然の別れの言葉にも。

 「隆尚さん、ねえ」

 戻ってきた涼子が不安そうに広瀬の膝を揺する。

 「陽深、いや、彼とはどういう知り合いなんだ」

 難しい顔のまま、呟くように広瀬が言った。

 「優里のお友達なのよ」
 「優里の?」

 ようやく、広瀬は顔を上げた。

 「ええ。顔見知りっていうか、優里を連れてのお散歩の途中でよく見かける人で、優里が懐いてしまったの」
 「それでどうして、彼がここにいるんだ。この家に!」

 広瀬は思わず、苛立ったきつい口調で言う。

 「私が呼んだの! 偶然会って、―― 寂しかったから、誰かに話を聞いてほしかったから…。それだけよ。なにもやましいことなんてないわ」

 涼子はそう言いながら、溢れてきた涙を拭って続ける。

 「あなたが悪いのよ…。私、わかってるわ、あなたが浮気してること」 
 「涼子 ――」
 「ほら、やっぱり」

 絶句した広瀬に、涼子は泣くのを堪えようと唇を噛んだ。
 息苦しい沈黙。それでも広瀬は口を開かない。

 「私、不安で、誰かに相談にのってもらいたくて ――。でもこんなこと会社の友達にも言えないし、両親や、まして兄には心配かけられないし。ずっと、一生懸命打ち消してきたけど、…でも、やっぱりそうなのね」
 「―― すまない。君を裏切るつもりじゃ、なかったんだ…」

 項垂れてあっさりと認める広瀬を、涼子が縋るように見上げる。

 「別れて、くれるわよね、その人と。今すぐに」

 広瀬は、動かず黙ったままだった。頷くことも、撥ね付けることも出来ず、胃が締め付けられるような痛みに、ただ耐える。

 「ねえ!」

 涼子が、駄々っ子のように膝を揺さぶる。

 「私、許すから。忘れるから。なかったことに出来るから!責めたりなんかしないから…」
 「涼子 ――」

 泣き縋る涼子をソファに引き上げてやりながら、広瀬はのし掛かってくる罪悪感に圧し潰されそうになる。それでもやはり、頷くことは出来なかった。

 「彼が、言ってくれたの。きっとあなたは帰ってくるって。一番大切なのは、家族なんだって。―― 気休めでも、信じたいの。私や優里を捨ててまで、手に入れなきゃならないものなんてないよね?」

 逸らそうとする広瀬の視線を捕らえて、涼子が訴える。

 「陽深が ――、そんなことを?」

 広瀬がそう言って苦しげに歪めた顔は、無理に笑おうとしているようにも見えた。

 「ええ」

 涼子は、そんな広瀬の様子に不安げに頷く。広瀬はなぜか不意に、大声で笑い出すか、叫びだしたいような衝動に駆られた。
 結局陽深は、良心と引き換えにしてまで、俺を必要とはしてなかったっていうことか。穏やかで淡々としたポーカーフェイスの裏に隠されていた、人の温もりに飢えた淋しい瞳。自分を見つめる目、戸惑いがちに絡みつく腕。
 ―― そんなに簡単に捨ててしまえる程度の想いだったのか?

 広瀬は、これは優柔不断な自分の態度が招いた事態だと、涼子を苦しめているのも陽深を追い詰めたのも自分だと、よくわかっていた。わかってはいても、自分を切り捨てようとする陽深が許せなかった。身を引こうとする陽深が、なりふり構わず広瀬に執着できない陽深が、歯がゆくて、―― 愛おしい。
 このまま、彼を失いたくない ――。

 「ねぇ、隆尚さん…。彼とはどういう知り合いなの?」

 急にふらりと立ち上がった広瀬を、涼子が訝しげに見上げる。

 「すまない、涼子。俺はあいつを、陽深を愛してるんだ」




 逃げるようにアパートに戻った陽深は、後ろ手にドアを閉めて鍵をした。そのままドアに凭れ、乱れた息のまま部屋を見渡す。
 なんの変哲もない、どこにでもあるアパートの一室。隣も階下も同じつくりで、それぞれに人が住み生活する、家。
 けれどここは、『家』じゃない。僕には、『家』など作れない。必要ない ――。
 陽深は自分の部屋に上がることも出来ず、ずるずるとその場にしゃがみ込む。この部屋には、自分だけ。一人きり、他に誰もいない。そんな当たり前のことに、寒気がした。
 もうここにはいられない、いたくない ――。
 ドアに凭れて座り込んだまま動けずにいた陽深の背中に、響く振動と声。

 「陽深!」

 周囲を憚ることなく、必死に陽深の名を呼び扉に激しく拳を叩きつける。

 「陽深、開けてくれ、いるんだろ」

 切羽詰まった広瀬の声に、陽深は呆然と立ちあがる。

 「陽深、頼むから ――」

 陽深は黙ったまま、息をひそめて立っている。薄い戸板一枚隔てた向こうの、広瀬の気配を感じながら。
 そのまま黙り込み、懇願するようにドアに凭れかかる広瀬の気配。
 陽深は、無意識にドアノブに伸ばしかけた手を止める。代わりに、無理に絞りだした言葉が悲鳴のように響いた。

 「帰ってください! お願いだから…、このまま帰って」

 陽深の理性を支えているのは、二人を遮るこの閉じられたドアだけだった。

 「―― 帰らない。このまま帰ったら、もう二度と会えなくなる。君は手の届かない、遠い場所に行ってしまう。一人で――。俺は、ここにいるから。君がドアを開けてくれるまで、ずっといる」

 広瀬は、陽深に言い聞かせるように一言一言はっきり云うと、それきり口を噤んでただ待った ――。
 永遠のような沈黙に、耐え切れず陽深はドアを開ける。目が合うより先に、広瀬は陽深を強く抱きしめていた。

 「広瀬さん」

 吐息のように、甘く掠れた呼びかけ。広瀬の腕の中で、陽深は震える瞼を閉じた。
 こんなふうに彼の腕の中に包まれて、彼の言葉にも、自分の心にも、逆らうことなどもう出来ない。

 「どこへも行くな。ずっと俺のそばにいてくれ、陽深。ここにいられないなら、俺も一緒に行くよ。何もかも捨てて、構わない」
 「広瀬さん ――」

 思わず体を離した陽深を見つめて、広瀬は迷いのない顔で言う。

 「本気だよ」
 「そんな…」
 「ダメか?」

 優しい覗き込むような問いかけと、そっと陽深の頭を引き寄せる大きな手。何も考えたくない、考えられない。陽深は、この手が自分のものになるならどんな罰を受けてもいいと、思った。

 「―― 離れたくない」

 こぼれ落ちた、何も偽らないただ素直な気持ち。理性や常識の殻の下に押し込めていた、たった一つの欲望。
 幼子のように無防備な、震える陽深の体を、広瀬はただ包み込むように抱きしめていた。




 翌日、広瀬は陽深のアパートから、いつもと変わらぬ様子で出勤した。二、三日中に、陽深は部屋を引き払い、広瀬は出来る範囲内で仕事を整理するつもりだった。
 もちろん普通の円満退職などはなから無理な状況だったが、最低限の後始末はしておきたかった。明日か明後日には、「失踪」というかたちですべてを放り出して行くのだ。
 取り合えず、空家同然となっているという東京の陽深のマンションに行くことになっていた。そこから先のことは、まだ考えていない。とにかく、少しでも早くどこかへ行かなければ ――。二人はただ、焦りにも似た思いに囚われていた。

 「課長、すみません。今なんか変な電話があったんですけど」

 外回りにもいかず、朝から黙々とデスクワークをこなしていた広瀬に、高橋が遠慮がちに声をかけた。

 「変な電話?」
 「はい。課長に掛かってきたんですけど、お名前おっしゃらなかったんで、伺ったら切れちゃったんです」
 「―― 女? 男?」
 「男性です」

 広瀬は男だと聞いて幾分ほっとしながら、言った。

 「いいよ、そんなのほっといて。どうせ勧誘かなんかだろ、きっと」

 あんなふうに家を飛び出したまま、なんの連絡も入れてない。たとえ理解してもらえなくても、涼子と話し合わなければならないのはわかっている。わかっているけれど ――。
 広瀬は大きく溜め息をつくと、朝から取り付かれたようにすすめていた仕事の手をとめた。上げた目線の先には、ブラインド越しの冬景色。暖房の効いた暖かい部屋から見える、晴れているのにどこか寒々しい空、強い北風にひゅうひゅうと音をたてる電線。ほんの1,2ヶ月後には確実に訪れるはずの、春の気配などまだどこにもない。

 広瀬は体を伸ばしてPCに向き直ると、再びやりかけの仕事をひたすらこなしていった。
 なんとか今やりかけの仕事にけりがついたのは、もう八時を過ぎた頃だった。机まわりだけでも掃除をしておきたかったが、不自然なのでやめた。出世には執着していないつもりだったが、いざ離れるとなると、この課長席に愛着のようなものさえ感じている自分に気付く。
 平凡なサラリーマンで、自分じゃなくても出来る仕事。それでも、やりがいはあったし、嫌いじゃなかった ――。
 広瀬は、そんな感傷的な自分に苦笑を浮かべ、立ち上がり気持ちを切りかえると、まだ残っている営業マンに軽く挨拶をして会社を出た。
 道に出てすぐの、白く照らされた街灯の下。夜になって一段と厳しくなった冷え込みのなかで、一人の男が広瀬を待っていた。

 「高村 ――」
 「たまらんな、この寒さ。まったくお前の仕事熱心さには呆れるよ」

 コートの襟を立て、寒そうに首を竦め腕を組んで、高村が立っていた。
 どこか暖かいところへと、二人は近くの小さな居酒屋へ入る。席について注文を済ませると、先に口を開いたのは広瀬の方だった。

 「涼子から、聞いたのか?」
 「ん、―― 俺もあんまり人の家庭のごたごたには首を突っ込みたくはないが、今回はさすがにな」

 高村は、取り出した新しい煙草に火を点ける。

 「今朝、涼子から電話があってな。おまえが出ていっちまった。もう帰ってこないかもしれないって。随分取り乱してたし、理由を訊いても要領を得なくてさ。仕方ねえから、とるものもとりあえず新幹線に乗ったってわけだ。会社に電話してみたら、どうやら出勤はしてるみたいだし、お前が出てくるのを待ってたのさ」
 「そうか ――」
 「で、どうするつもりなんだ?」

 黙りこんだ広瀬に、高村が溜め息をつく。

 「ただの浮気じゃないってか ――」

 独り言のように、高村はなげやりに言った。

 「涼子には、すまないと思ってる。お前にも。…こんなことになって」
 「俺のことはいい、おまえたちの問題だ。―― けど、このまま放っとくわけにもいかないだろう?」
 「それは、わかってる…」

 俯いてそう言ったきり口を開かない広瀬に焦れたように、高村が続ける。

 「俺は、お前ってこういうごたごたとは無縁の人間だと思ってたよ。いい旦那やって、いい父親やって、まぁもし万が一ハズミで浮気するようなことがあっても、そのへんもうまくやると思ってた。お前が自分から家庭を壊すようなことをするなんて信じられないね。―― いったい、どうしたっていうんだ?」

 高村は、少し苛立たしげな様子で言った。

 「―― 浮気とか、涼子を裏切るとか、そんなつもりじゃなかったんだ。けど、気付いたら、こうなってた。どんなに責められても仕方ない。悪いのは俺だ。だけど、もう後戻りできない。彼を、―― 失いたくないんだ」
 「彼?」

 高村は怪訝な顔で言った。

 「聞いてないのか? 涼子から。―― そうだよ、男なんだ相手は。それもおまえのよく知っている」
 「お前 ――、俺もよく知ってるって――」

 驚きに言葉を詰まらせる高村に、広瀬が淡々と続ける。

 「川合陽深だよ。お前の会いたがってた」
 「なんだって!」

 高村は思わず大きくなってしまった声を、慌てて潜める。

 「冗談だろう? なんで、また―― 知り合いだったのか?」
 「いや ――」

 説明に窮する広瀬の肩を掴むと、高村は身を乗り出して言った。

 「俺はな、はっきり言って今回のことはお前の気持ち次第だと思ってた。無理に説得して連れ戻すつもりできたんじゃない。お前の気持ちを確認して、どちらにしろ涼子と話し合ってこれからのことを決めるように、その仲立ちにでしゃばってきたつもりだった。涼子には可哀想だが、結果的にお前たちが別れることになってしまってもお前の気持ちがもう決まっているなら、それはそれで仕方のないことだと思ってた。けど、―― 相手が彼なら、話は別だ」
 「高村…」

 いつになく真剣な面持ちの高村に、広瀬は戸惑っていた。なぜ、彼ではいけないのだ?

 「お前、この間の俺の話を聞いてなかったのか?」

 高村は、苛立たしげに声を荒げる。

 「涼子と別れて、優里を手放して、何もかも失うつもりなのか? それで彼と幸せになれるとでも思ってるのか?」
 「陽深が、男だからか?――」
 「違う。―― いや、それもあるが…。涼子とのことは、まだお互い若いんだ、今は辛くても時間が経てばまたやり直せるし、優里とお前の血の繋がりまでは切れちまったりしない。あいつらのことは、俺だってついてる、大丈夫だ。けどな、―― 相手が普通の女なら、水商売でも年上でもなんでもとりあえず女なら、その相手ともう一度始めればいい。お前がそれほど惚れた女なら、俺はそれでも仕方ないと思ってた。お前が 無責任な男でも、遊びで恋愛ができる人間じゃないってことも、俺だって知ってるさ…」

 高村は寂しげにふっと微笑んだ。そして、その顔を厳しく引き締めて云う。

 「けどあの男は…、川合陽深は、だめだ」
 「どうしてだ」

 断定的な高村の言葉に、広瀬は戸惑いと微かな怒りを覚えた。不貞を責められるのならわかる。だがなぜ、陽深だからだめだと言うのか。

 「彼は俺たちとは違う人種なんだよ。そりゃあ、お前が彼に惹かれる気持ちもわからなくはないさ。彼はいろんな意味で特別な人間だからな…。けどそれだけで、恋愛感情だけで一生を共になんて出来ないんだ。この歳になりゃあ、お前だってもうわかるだろう。求めるものが同じで、同じ方向を見ている人間としか人生は重ならないんだ。―― 彼と一緒になって、どうなるっていうんだ? 彼が絵を捨ててここに定住するとでも?」
 「ここには、いられないよ。どこか別の土地でやり直すつもりだ」
 「仕事は?」
 「やめるよ」
 「やめてどうする? 奴のヒモにでもなるつもりか」

 高村は苦々しく、吐き捨てるように言った。そんな彼の態度に、広瀬は諦めたようなため息をつき静かに言った。

 「先のことは、後で考える。とにかく、今は早くここを離れたいんだ。涼子にも優里にもすまないと思ってる。本当に――。けど、決めたんだ。もう引き返せない。…すまない、高村」
 「まだ、引き返せるさ。―― いいか、後でじゃない、後でじゃ遅いんだ。今考えろ広瀬。今の気持ちだけじゃなく長い人生の先の先まで。考えて、やっぱり気持ちが変わらないなら、覚悟が決まっているなら、仕方ない。――でもな、少しでも後悔しそうなら、帰れ。涼子たちのところへ。あいつは、許してくれるよ。ずっとお前のこと、待ってるんだ。―― 涼子とお前は、似てるよ。バカ正直で、駆け引きが出来なくて。…あいつは、バカな女だけど、愚かじゃない。もう一度、やり直せるよ」

 高村の口調は、だんだん穏やかな諭すようなものになり、広瀬はただ黙って手の中の氷の溶けたグラスを見つめていた。

 「―― とにかく、一度は家に帰れ。まさかこのまま駆け落ちするつもりじゃないだろう。出て行くなら出て行くで、きちんとするべきことはしておけ。本来お前が背負うべきものを全部投げ出していくんだからな。優里の将来のこともあるだろう」
 「―― ああ」

 優里のことを言われるのが、広瀬には一番こたえた。広瀬は、温くなった液体とともに、湧き上がる苦いものを無理やり呑みこんだ。 





 「なにしてるんだ?」
 「掃除です」

 その夜遅く広瀬が戻ると、陽深はごしごしと台所の流し台を擦っていた。

 「こんなに夜遅くしなくても、昼間やればいいのに」
 「ええ、でも――暇だったし、きれいにしていきたかったから」

 陽深は水を流しながらそう言うと、広瀬の隣に腰を下ろす。

 「お風呂に行くでしょう?」
 「え?」
 「銭湯。早く行かないとしまっちゃいますよ。そこに、着替え置いてますから」

 部屋の隅に新しい下着と、Yシャツが置いてあった。靴下も。そういえば今朝は、前日のままの格好で会社に行った。

 「よく気がつくね」

 感心したようにいう広瀬に、陽深は当たり前のことのように、そうですかと小首をかしげた。
 陽深はずっと一人暮らしだったせいか、そういうことにはとてもよく気が回る。人見知りで、世間に疎いところのある陽深の意外としっかりした一面に、広瀬は妙に感心していた。けれど、だからこそ彼は自分で自分のことはなんでも出来るのだとも言える。誰に頼らなくても一人で生活していくことが出来るように。
 反対に、優秀なビジネスマンで一人前の社会人であるはずの広瀬の方は、洗濯さえ満足に出来ない。生活に必要な細々としたことはすべてやってくれる人が、常にそばにいたから。

 「銭湯なんて、何年ぶりかなぁ。昔、家風呂の改装のとき行ったことがあるくらいだな」

 広瀬は感慨深げに呟いた。

 「そうか――。今はほとんどの家にお風呂ってあるんですよね」

 陽深は陽深で、感心したようにそう言うと、ちょっと微笑んで続ける。

 「僕はよく行きますけどね」
 「じゃあ、これからは一緒に行こうな」

 広瀬の言葉に、陽深ははにかむように笑って頷いた。
 広瀬は、そんな和やかな空気のなか、ふと思い出す。
 優里はまだ、家風呂にしか入ったことがない。広瀬が会社の慰安旅行で行った温泉の話を聞いて、優里も大きいお風呂に入りたいと云いだしたのだ。だがそうすぐに家族旅行というわけにも行かず、とりあえず代わりに銭湯に連れていくと約束をした。それでも、優里はそれをとても楽しみにしていて――。
 『ねえ、どれくらいおっきいの? パパもママもゆりも、一緒に入れるくらい?』
 嬉しそうにはしゃいでいた優里。みんな一緒には無理よと笑う涼子に、どうして、すんごい広いのにだめなの? と真剣に訊いていた、まだあどけない、小さな娘――。

 「…もう、きれいになにもなくなっちまったな。まぁ、初めから大きな荷物はなかったけど」

 広瀬は、もう考えまいと振り切るように口を開いた。

 「ええ、絵の道具類や細々したものも全部、今日東京に送りました。布団は借り物だから、明日返します。退室の手続きもほとんど終わったし」
 「そうか」
 「会社のほうは?」
 「ああ、もういいよ。どうせすべて片付けていくことなんて出来ないし、最低限のことはなんとかね――」

 会社のことなんかより、放っては行けない一番重要な問題をお互いが口に出来ずにいた。このまま目を背けて、忘れたふりが出来るなら――。

 「新幹線のチケットもとりました。明日の東京行き12時25分発の、のぞみ」
 「――ありがとう」

 広瀬は胸ポケットの煙草を探って、思い出す。ああ、ここに灰皿なんてないな――。
 一息おいて、広瀬は思い切って言った。

 「今日な、高村に会ったよ」
 「え?」
 「涼子の兄で、俺の学生時代の友人の。――わざわざ会いにきたんだ、東京から。駆け落ちするにしても、ちゃんと二人のことにケリをつけてからにしろってさ…。だから、明日一度家に帰るよ」
 「そう、――ですね。じゃあ切符は、キャンセルした方が」

 努めて冷静に、なんでもないことのように淡々と、陽深は言った。

 「いや、いいよ。それまでには戻るから。列車の時間には必ず間に合うように」
 「――いいんですか?」
 「ああ、――心配しなくてもいい、もう結論は出てるんだから」

 広瀬は微笑んで、陽深の冷たい体を抱き寄せる。
 陽深はただ、広瀬の言葉を信じるしかなかった。




 朝、陽深が目を覚ますと、広瀬の姿はもうなかった。枕もとに一枚のメモ。
 ――もし遅くなったら、駅の改札で待っていてくれ。必ず行くから。――と。
 陽深は、寝起きのまだはっきりしない頭で、そのメモをぼんやりと見つめていた。
 昨夜、彼はなんて言っていた――? 彼は、帰る、と言った。それは無意識の、ごく自然な文脈から出た言葉で。それは陽深にも、よくわかっていたけれど。




 ダイニングテーブルに置かれた離婚届を挟んで、広瀬と涼子はもうずっと同じ言葉を繰り返していた。

 「頼む、サインしてくれ」
 「いや。絶対に」

 涼子は机の下へ両手を隠すように、膝にぐっと拳を押し付けたままだった。
 広瀬は、陽深の部屋を出ると先に市役所へ寄り、離婚届の用紙をもらってからここへ来た。二人でよく話し会うようにと、優里は高村が連れ出している。

 「君にはすまないと思っている。謝ってすむような問題じゃないことも」
 「じゃあ、行かないで」
 「涼子――」
 「お金とか、家とか、優里の養育費とか、そんなものいらない、そんな話聞きたくない! 謝って欲しいんじゃないわ。どこにも行かないって言って、それしか聞きたくない!」

 涼子は離婚届を乱暴に掴み取ると、細かく破り捨てる。思わず立ち上がった広瀬を、潤んだ目で睨みつけて云った。

 「こんなもので、今までの生活をすべて切り捨てられるの? そんなに簡単に、私と優里を切り捨てられるの?――私たち、うまくやってたじゃない! 仕事だって――。私、幸せだったわ。あなたがいて優里がいて、この家で幸せだった。あなたはそうじゃなかったの? 全部私の独りよがりだったっていうの?」
 「――そうじゃない」

 広瀬は、疲れたように首を振る。捨てたくて、捨てるわけじゃない。彼は家族を愛していた。幸せだった。こんなふうに愛するものを裏切っている罪悪感に、もう押し潰されそうだ。考えることすら、身を切られるような苦痛だった。

 「じゃあ、帰ってきて! やり直しましょうよ。まだ戻れるわ」

 広瀬の腕を掴んで揺さぶる涼子に、彼は力なく首を振った。

 「私と離婚したって、彼と結婚できるわけじゃないじゃない! 彼と一緒に行ってどうなるっていうの? 幸せになんかなれっこないわ! 後悔するに決まってる」

 広瀬は、振り切るように涼子の肩を押し戻す。
 少し痩せた細い肩の感触、涙に濡れた縋りつくような瞳。夫として家族として、一生守ると誓ったはずの女――。守るべきものを裏切り傷つけている自分。

 「もう行かないと…」
 「いや――」
 「ごめん、涼子」

 玄関へ向かう広瀬を、涼子が追う。靴を履こうとする広瀬に取り縋る。

 「待って! いや――、お願い、行かないで隆尚さん。優里はなんにも知らないのよ? 優里になんていうの?」

 一瞬、広瀬の動きが止まる。

 「あなたの娘なのよ! あんなに可愛がってたのに、捨ててくの? なんてひどい父親なの!」
 「涼子、お願いだ。もう」

 広瀬は、その場に凍りついてしまいそうな足をなんとか前に出そうと努力した。
 陽深が、待っている。必ず行くと、――約束したのだ。 扉を開けて出て行く広瀬の後ろ姿を、涼子にはもう、引き留める術はなかった。それでも――。

 「待ってるから」

 戸口から消えていく広瀬の背中に叫ぶ。

 「私、ずっと待ってるから! ここで、この家で、あなたが帰るのをいつまでも待ってるから!」




 陽深は、改札横のコンクリートの柱にもたれてじっと立っていた。改札中央の時刻表示は12時7分。小さく溜め息をついて視線を落とす。もう30分以上も前からここで、何分かおきに同じ動作を繰り返していた。
 陽深はポケットからそっと、二人分の乗車券を取り出した。そして、片方をポケットに戻す。
 手の中の、もう一人分のチケット――。無駄になるのだろうか。
 案外、冷静な自分がなんだか不思議だった。本当は、信じてなどいなかったのかもしれない。期待なんてするだけ空しいものだと、よく知っている。
 顔を上げて、もう一度時計を見た。あと――5分だけ。

 「陽深!」

 呼ぶ声に、振り向く。広瀬が駆けてくる。

 「広瀬さん…」
 「ごめん。遅くなって――」

 息を切らせながら腕時計を見て、大きく息をついた。

 「ああ、なんとか間に合ったな」

 陽深は、なんだか信じられない思いで、目の前の男を見つめていた。

 「陽深?」
 「――来ないかと、思ってた」

 消え入りそうな陽深の呟き。

 「なぜ? 約束しただろう、ちゃんと」

 そう、確かに約束をした――。陽深の顔に浮かんだ寂しい笑みに、広瀬は気付かない。

 「あ、そうだ。これ」

 広瀬は急に思い出したように、コートのポケットから小さな包みを取り出した。

 「なに?」
 「この間、なんとなく買ってしまったんだけど。――渡しそびれてた」
 「僕に?」
 「ああ、たいしたものじゃないんだが――」
 「ありがとう。――これ」

 陽深はその小さな箱を受け取ると、代わりに持っていたチケットを差し出した。

 「ああ」

 東京行きのチケット。こんなたった一枚の小さな紙切れが、なぜか広瀬にはとても重く感じられた。
 広瀬はそれを胸の隠しに入れると、ちらりと時計を見遣る。

 「まだ、大丈夫だな。なにか――飲み物でも買ってくる。待っててくれ、すぐ戻るから」

 そう言って、広瀬は柱の影にあった自動販売機に向かった。お茶を二本買い、取り出し口に手を入れようとして、――そのまましゃがみ込んでしまう。

 (しっかりしろ! ここまで来て、今更なにを迷うっていうんだ)

 疲れているのだと思った。体も神経も、ひどく。休まなくてはいけない。ゆっくりと安心できる場所で――。
 広瀬を呼ぶ優里の声が、涼子の泣き顔が、浮かぶ。石のように重い体を無理に引き起こした。考えてはだめだ。今は、考えるな。
 大きく息をついて、広瀬は顔を上げた。行かなければ――。
 広瀬が待ち合わせの場所に戻ったとき、そこに陽深の姿はなかった。慌てて周りを見渡す。荷物もない。もう出発の時刻まで間もないというのに、どこへいったのだろう。まさか先に? 焦る広瀬のポケットで、スマホが震える。陽深からのラインだった。

 『一人で行きます。ありがとう。
  来てくれて嬉しかった』

 広瀬は、呆然とその文字を見つめる。
 どうして、一人で行かねばなならない? 二人で行こうと言ったのに。ずっとそばにいると。約束通り、何もかも捨てて、ここへ来たのに――。
 電光掲示板の、のぞみ215号の出発時刻表示が次発から先発に変わる。
 広瀬は、我に帰ると上着から自分の分のチケットを取り出した。追いかければいい。まだ間に合う。

 切符は自分の手の中にある。

 だが、広瀬の足は動かなかった。ただ体重を支えるだけの、少しでも動けばバランスを崩して倒れてしまう棒切れのように、ぴくりとも動かなかった――。



 陽深は列車の座席に座り、ただ息を詰めて発車を待っていた。ホームを見渡せる窓からも、車両の入り口からも目を背けて、追いかけてくる彼の姿を探さぬように。
 ようやく、発車合図のメロディが響き始め、目を閉じた陽深の耳に、車掌のアナウンスと扉の閉まる音が聞こえた。ゆっくりと動きだした列車の振動が、体に伝わってくる。
 目を開けた陽深の視界から長いホームが流れて消え去り、徐々にスピードが上がっていく。
 陽深はようやく全身の力を抜いた。

 これで、――よかったのだと、陽深は思った。
 陽深は、あの母娘が好きだった。幸せな、優しい彼女たちが好きだった。なによりも、優しい夫としての、父親としての広瀬に惹かれたのだと、気付いてしまった――。
 彼らを引き裂いて手に入るものなど、何一つありはしないのに。本当はそんなこととっくに、わかる過ぎるくらいわかっていた。二人とも。
 それでも、諦められなかった。わかっていてもどうしようもなかった。ただ、お互いを失いたくなかっただけなのに――。
 陽深は、息苦しさに歪む顔を、両手で覆う。
 もういい。広瀬は、ずっとそばにいてくれると言った。そして約束どおり、来てくれた。これ以上、何を望むというのだろう。最初から、なかったと思えばいい。もとの生活に戻るだけだ。
 陽深は、そう自分に言い聞かせた。

 (辛くなんかない――。息苦しいのは、強すぎる暖房のせいだ)

 身じろぎした陽深の手が、なにか硬いものに当たる。ポケットの中の、小さな包み。陽深は、広瀬がくれたその包みを取り出した。
 何かを欲しいなんて、一度も言ったことはなかった。本当に欲しかったのは――。
 空いたままの、隣の席。陽深は無意識にそちらに向けていた視線を、戻す。
 細いリボンと包装紙の下は、綺麗な瑠璃色の箱。蓋をとると、中身は繊細な細工の施された銀色の懐中時計のようだった。そっと手に取り、上部の突起を押すと、ぱちんと蓋が開いた。
 ふいにこぼれ出る、音。単純で透明なそのメロディは、あの夜の、優しい旋律。蓋の下でゆっくりと回る、小さなぜんまい。

 それは小さな、オルゴールだった。
 幾度となく繰り返されるフレーズは、終わりのないトロイメライ。永遠に立ち止まったまま、次々に訪れては過ぎ去る情景。夢のように、繰り返し、繰り返し――。
 甦ってくる、想い。
 触れ合う温かさ、目の前にいる安らぎ、一人の寂しさ。広瀬と出会うまで、知らないで生きてきた。
 溢れる想いが滴になって、陽深の頬を滑り落ちる。後から後からとめどなく落ちる滴が、陽深の手を、オルゴールを、濡らす。おそらく、陽深にとっては初めての、涙の感触。
 リフレインはやがて、ゆっくりと途切れてゆく。

 (失ったんじゃない――、もらったんだ)

 陽深はそれを、胸の中に包み込むように、そっと抱き締めた。
 決して失われないものが、ここにある。



 近代的なオフィスビルの中にあるギャラリーは開放的で明るく、中は意外にシックで落ち着いた雰囲気だった。
 開け放たれた扉の横には、「川合陽深展」と書かれた札が立てられ、ここへ来るまでにも何度か見かけたシンプルなポスターが貼られていた。
 入り口で立ち止まった広瀬に、手をつないでいた優里がポスターを指さして言った。

 「これ、絵描きさんの書いた絵?」
 「…そうだよ」
 「――あなた」

 すぐ後ろにいた涼子が、静かに声をかけた。

 「ああ――」

 受付で、三人分のチケットを渡している間に、涼子が優里を呼ぶ。

 「じゃあ、出口のところでね」

 涼子は微笑んで言うと、優里の手を引いて先に歩き出す。広瀬は、気を利かせてくれたらしい涼子の、後ろ姿を目で追った。
 初夏の明るい日差しに映える若草色のスーツ、優里はベビーピンクのふわふわしたワンピース。広がった短いスカートの裾をひらひらと揺らしついていく優里を、絵の前で涼子が抱き上げる。何か話しながら、楽しそうに笑っている。
 仲良さそうな、母娘の姿。どうしても捨てられなかった、壊せなかった幸せの形。

 あれから、家に戻った広瀬を、涼子は笑って迎え入れた。泣き腫らした目で、それでも、お帰りなさいと笑った。
 そうして徐々に、元通りの単調で安らぎに満ちた生活を取り戻して行く。月日を重ねてゆくうちに、ぎこちなさも消えてゆき、いつかそれも「過去」になり、夫婦の危機だったと笑って話せる日が来るのかもしれない。
 今はまだ痛む胸で、広瀬は思う。

 昨日の土曜日、高村から一通の封書が届いた。速達で届いたその封書の中には、会期ぎりぎりの、この展覧会のチケットが3枚――。手紙も何も添えられてはおらず、ただそれだけが送られてきた。
 広瀬は広い会場内を見回す。最終日である日曜、たくさんの人が訪れていたが、混雑というほどでもなく、みな静かに、それぞれのペースでゆったりと絵を鑑賞していた。適度な間隔を取り、発表順に70点余りの作品が展示されているという。

 広瀬が陽深に惹かれたきっかけは、絵を描いてる彼の姿だった。
 しかし広瀬は、陽深の描く絵自体に興味を持ったことはなかった。それはただ、画家である川合陽深ではなく、彼自身を愛したからだと思っていた。
 透明感に満ちた、美しい風景画の数々。ひっそりとした優しさを感じさせる、静かな絵。けれど、暖かな日溜まりも、眩しい夏の海も、漂う微かな寂寥感。高村の云う懐かしさとは、こういうことだろうかと、思う。郷愁に似た、寂しさ。せつないけれど、それは不快な感情ではなかった。
 これもみな、彼だったのだと、今さらのように思う。彼の描く作品はみな、彼の一部なのだ。だが広瀬はずっと、自分の目の前にいる彼だけが、すべてだと思っていた。陽深の淋しさも、透明な心も、すべてをわかっているつもりでいた。すべてを、愛しているつもりでいた。
 順路に沿って、年代順に作品を追っていく。最後の作品の前に来て、広瀬は立ち止まったまま、動けなくなる。
 あのときの、風景。一緒に行った、湖の――。 立ち尽くす広瀬の脇を、他の客たちが通り過ぎてゆく。

 (あの場所は、こんなにも、美しかっただろうか――)

 広瀬は、目の前に広がる雪景色に、身動きひとつせずに、ただ見入っていた。

 「素晴らしいでしょう?」

 不意にかけられた声に、広瀬はびくりと振り返る。すぐ後ろに、穏やかな笑みを湛えた老紳士が立っていた。
 戸惑う広瀬に、関係者らしいその男が続けて話し掛けてくる。

 「失礼。私、早川と申します」

 そう言いながら彼は、慣れたしぐさで名刺を差し出す。受け取りながら広瀬は、ぼんやりと思い出していた。
 陽深が、絵のことはすべて任せていると言っていた画商の名。たいしたやり手だと、高村が言っていた――。

 「これは、当初予定に入れていなかった作品なんですが、ぎりぎりで仕上がってきましてね。これを受け取ったときは、なんというか――、感動しましたよ。この歳になって、もう何十年もこの商売をやってきて、それでも、打算抜きで惹きつけられてしまう」

 老人の穏やかな話し声に耳を傾けながら、広瀬の目は再び絵に引き戻されていた。広瀬には、絵の価値などわからない。ただあの日確かに二人で見たはずの、その光景に打ちのめされていた。
 同じ時間、同じ場所。寄り添って、共有していた空間。彼の描いたその風景は、輝くような祝福に満ちた、夢のように儚い世界だった。これが、彼の見ていた風景だったのか――。

 「トロイメライ、というのですよ」
 「え?」
 「この絵のタイトルです。他の絵にも一応便宜上つけていますが、『月の銀杏並木』とか、『春の山並みⅠ』とか、こちらで適当につけてるんですよ。彼はそういうのに、全然拘らないのでね。けれど珍しく、この絵には初めからタイトルがついていた」

 よく見ると、掛けられた額の下側にレリーフのようにさりげなく『Traumerei』と記されていた。
 今となっては夢のような、あの日々。待っていた彼を、追わなかった自分。裏切ったのは、自分。許しを乞うことさえ出来ず、このまま、現実に流され色褪せていくはずだった思い出――。
 けれどその夢は、ちゃんとここにある。二人たしかに抱いていた、息が詰まるほどのいとおしさも、臆病で無垢な愛情も。二人で過ごした優しい時間も、彼はこうして形にして、人生の軌跡のように残してゆく。
 二人のことにあれほど反対していた高村が、なぜチケットを送ってきたのか、わかるような気がした。

 広瀬は溢れ出る涙を止める術もなく、ただ立ち尽くすことしか出来なった。

 「この作品は売り物ではないのですが――、よろしければ受け取っていただけませんか」

 振り返った広瀬の涙の意味を、おそらく知っているのであろう。彼は戸惑った様子もなく、穏やかな口調で続けた。

 「この絵は、おそらく貴方のために描かれたものでしょう」

 けれど広瀬は、俯いて首を振る。

 「いいえ」

 なにか言おうとする早川を遮るように、広瀬は言葉を継いだ。

 「私が持つ資格はありません。こうして、――見ることが出来た。それで、十分です」

 そのまま絵に視線を戻した広瀬に、早川はもうなにも言わず、黙って静かに立ち去った。
 立ち止まっては通り過ぎてゆく人々のなかで、広瀬は一人いつまでも、その絵を見つめ続けていた。




 ――fin


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