(あー、いい月だな…)
広瀬隆尚は、ため息をついて空を仰いだ。
もう真夜中といっていい時間帯。閑静な住宅街にあるこの大通りでは、時折何台かのタクシーが行き過ぎるくらいで、歩道を歩く人影は彼だけだった。
趣味のよいスーツに身を包み、ステンカラ―のコートにブリーフケースを抱えたビジネスマン。背の高い、職場のOLたちにも人気のありそうな容姿だが、今歩いている彼の姿は、いかにも疲れ切ったサラリーマンそのものだった。
中堅どころの建材関係の商社に勤める彼は、34歳の若さで課長。同期の中では出世頭だった。しかし、課長とはいっても規模の小さい京都支店での話だ。多忙な営業マンとしての役割の上に中間管理職の責任と雑務がのし掛かってくるだけの、彼にとってはまったく有り難くない状況だった。
今日の西日本ブロック会議は散々だった。
前期の営業成績は、各支店の課の中で京都支店営業部営業二課、つまり広瀬の課が一番悪かった。彼個人の成績自体は目標額をクリアしていたが、会議では課長という役職においての責任が問題なのである。散々無能呼ばわりされた挙げ句に、今期の目標額をさらに5%アップしろときた。
彼はもう一度大きくため息をつくと、胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。
いつもならバスかタクシーで通るこの並木道を、今日はなぜか急いで帰る気がせず、ことさらゆっくりした歩調で歩く。身体も精神的にも疲れ切っているはずなのに、もう少し歩いていたい気分だった。
対向車線を区切る安全地帯はかなり広くとられていて、銀杏の大木が一列の植えられている。もう十一月も半ば、銀杏の葉はすっかり黄金色に色づき、あとは散るばかり。
広瀬は、季節感さえあまり感じる余裕のなかった最近の自分に気づき、また一つため息を漏らす。その銀杏並木の葉の間を横切るように架けられている歩道橋。ふと思いついた彼は、その階段を上り始めた。
すぐそばに横断歩道があるために、今ではもう殆ど使われていない古びた歩道橋。今まで広瀬は一度も上ったことはなかったけれど、月の綺麗な静かなこの夜、月見には案外もってこいの場所かも知れない。そう思いながらのんびりと階段を上る。
階段を上りきると、意外なことに先客がいた。
広瀬は思わず立ち止まり、思ったより明るい歩道橋の上、その先客の姿を見つめる。
イーゼルを立てて、銀杏並木に向かって絵を描いている、若い――男性だろうか。長めの髪を後ろで結んでいるが、女性にしては直線的な身体のライン。
(美大生かな)
立ち止まって見つめる広瀬に気付く様子もなく、彼の視線は銀杏並木とキャンバスを往復している。肉づきの薄い整った大人っぽい顔立ちだが、唇を引き結んで一心にキャンバスに向かう姿は、まるで遊びに夢中になっている子供のようなあどけなさで――。
立ち止まったまま広瀬は、なぜかその年齢不詳の横顔から視線を外せずにいた しばらくして、ようやく広瀬の視線に気付いたらしい彼が振り向いた。 広瀬は慌てて視線をキャンバスに移して言った。
「すいません。見ていても構いませんか? その…、好きなんです、絵」
「――ええ」
彼は、少し戸惑ったように頷くとすぐに視線を戻した。広瀬は少し下がって斜め後ろの手摺りに凭れて立った。
とっさに絵が好きだなどと言ったものの、本当のところ彼にはピカソやゴッホでさえ今ひとつ見分けがつかない。嫌いではないが別段関心もなく、身内に美術関係の仕事をしている者もいるが、芸術オンチだとよくバカにされていた。
ただ単に、人が絵を描いている姿が珍しかったのだろうか。仕事中心の生活で、日頃会う人間はサラリーマンや経営者などの同年代かそれ以上の中高年。それ以外はファッションや旅行やグルメや、そういうものが話題の中心になるOL達。そういう生活を送っている広瀬にとって、絵や音楽などの芸術に携わる人間は、なんだか違う人種のようにさえ思われた。
月明かりか、街灯か、ほの白い明かりに浮かび上がる手の動き。しんと冷えた空気の中、セーターを捲り上げた細く白い腕。くせだろうか、ほんの少し傾けられた小さな顔。
広瀬は自身の行動に戸惑いながらも、一心にキャンバスに向かう彼の姿に、時間を忘れて見入っていた。
彼は筆を止めて、しばらく描いた絵と銀杏並木を眺めると、画材をしまい始めた。
「もう描き上がったんですか?」
ぼんやりと眺めていた広瀬は、はっと気がついて尋ねる。
「いえ、まだですけどもう月もだいぶ落ちたし。それに、色を置くのは昼間じゃないと…」
彼は声をかけられて一瞬広瀬の方を向いたが、すぐに向き直って手を休めずに答える。一見そっけない態度のように見えるが、声のトーンは柔らかく、気恥ずかしそうな、他人と向き合って話すのに馴れていないような、そんな感じがした。
「あの、――まだ時間ありますか?」
「え?」
不思議そうに振り返った彼に、広瀬は慌てて続ける。
「いえ、今夜は冷え込むし、よかったらどこかで温かいものでもと…」
取って付けたようなセリフ。まるでナンパだと思ったが、もう遅い。つい口をついて出てしまっていた。怪しい中年だと思われているだろうかと、広瀬は少し後悔していた。
ただ、もう少し話をしてみたいと、そう思っただけなのだけれど――。
彼は目を伏せて一瞬考えるような素振りを見せたが、意外にもあっさりと、広瀬の言葉に頷いた。
「ただいま」
当然、もう寝ているだろうと小さな声で呟きながら玄関を上がる。
「お帰りなさい」
予想に反して、リビングから返事があった。
「なんだ、今日は遅くなるから先に寝てろって言っただろ。もう1時過ぎだぞ」
遅くなったのは仕事のせいばかりではないせいか、なんとなんくばつが悪くて、少し怒ったような言い方になる。
「なぁに、それが健気にもこんな時間まで起きて待っていた妻に言うセリフ?」
ダイニングテーブルでお茶を入れながら、妻の涼子がふざけた口調で笑って言った。
「深夜番組見てたら、つい遅くなっちゃっただけよ。なにか食べる?」
「いや、いいよ」
彼はそのまま、もうすぐ3歳になる娘の優里の部屋に向かう。細く戸を開けて中を覗くと、優里はお気に入りの縫いぐるみと一緒にぐっすり眠っていた。そのまま静かに戸を閉めて、ダイニングに戻る。
会社では、スマートなビジネスマン。とても所帯持ちには見えないと女子社員に人気の広瀬だが、家ではただの子煩悩な父親だった。優里が起きているうちに帰れないときは、たとえ何時になっても、帰るとまず娘の寝顔を確認するのが日課になっている。
彼が熱い湯呑みを受け取ると、涼子は自分の分も入れて座った。
「優里ったら、今日もパパの帰りが遅いって拗ねてたのよ。お風呂入るでしょ?沸いてるわよ」
「ああ、悪いな」
「――なんだ。けっこう元気そうね」
「え?」
「会議だったんでしょ?今日。恐怖のブロック会議。朝から胃が痛そうだったもんね」
立ち上がってバスタオルや着替えの用意をしながら続ける。
「もっと、ヘコんで帰ってくるかと思ってた。思ってたほどひどくなかったの?」
涼子とは職場結婚だった。といっても、彼女は広瀬の親友の妹で、学生の頃から見知ってはいた。三つ年下の彼女が、たまたま広瀬のいる会社に三年遅れで入社してきたのだ。
もともと知り合いということもあって、親しくなるのにさほど時間はかからなかった。涼子は美人で頭も良かったし、お高くとまったところもなく、素直で明るい、広瀬の好みのタイプだった。あとはよくあるパターンを辿って結婚まで行き着いた。
結婚後はすんなり会社を辞めて家庭に入ったが、同じ会社にいただけあって内情には詳しい。今でも社の女の子達と仲良くやっているらしく、社内情報は筒抜けで浮気なんてまず無理だ。けれどこうして夫の仕事の厳しさを理解してもらえるのは有り難かった。
「まあ、キツイのはいつものことだから」
「お疲れさま」
涼子はそう微笑むと、広瀬に着替えを手渡した。
湯舟に深く身を沈め、熱い湯に疲れた体を伸ばしながら、広瀬は今日出会った青年のことを思い出していた。今考えても、大胆なことをしたよなーと、一人赤面してしまう。
彼が月夜に出会った絵描きの名は、川合陽深(はるみ)といった。
「えっ、二十七? てっきり学生かと…。あ、いや失礼」
つい不躾なことを言ってしまった広瀬に、陽深は笑って答える。
「よく言われるんです。気にしないで下さい」
彼はゆっくりとした動作でコップ酒を口にした。
本当はちゃんとした店に連れていくつもりだったが、このあたりは住宅街で盛り場の方へわざわざ出るのも大袈裟なので、結局近くにあったおでん屋の屋台になってしまった。
「なんか申し訳ないな…。こんなところで」
「いいえ」
「寒くない?」
「お酒飲んだから、暖かくなりました」
熱燗のコップを両手で囲んで言う。
適当におでんを頼んで、腰を落ち着ける。彼は言葉少なで、ほとんど聞かれることに答えているだけだったが、それでもなんとなく楽しげに見えるのは広瀬の希望的観測ばかりでもなかった。話し込むでなく、ばか騒ぎをするでもなく、こうして静かに並んでいるだけで、さっきまでの落ち込んでいた自分が嘘のように、不思議と満ち足りた気分になっていた。
会社勤めが長くなってくると、交友関係も固定してきて仕事関係の付き合いばかりになる。同じ業界の似たような境遇の人間たちばかりの付き合いが嫌な訳ではないが、広瀬は、新しい、自分の知らない世界の人間との交友を求めていたのかもしれない。
「学生じゃないのなら、もしかして画家とか?」
「そんな大層なものじゃないですけど…。働かないで絵ばかり描いてるだけだから」
彼は少し困ったように笑って、曖昧に答えた。
「よくこのへんで描いてるの?」
「いえ、今日が初めてです。京都へ来たのは今回が初めてだから」
「家はどこに?」
「一応、東京に家はあるんですけど…。決まってないんです。いろんな土地に行って描いて、また違う土地へ行って――。その繰り返しで」
その答えに、広瀬は少しがっかりしながらも聞いてみた。
「ここには、どれくらいいるつもり?」
「いつまでとは決めてないですけど…。いいところですよね。いろいろ描きたいところも多いから、しばらくいるつもりです」
「それなら…、またこんなふうに会えるかな?」
「ええ」
広瀬の申し出に、彼は素直に頷いた。
「広瀬課長」
「ん?」
いつもよりは比較的静かな夕刻のオフィス。広瀬の課の女子社員の一人、高橋が話しかけてきた。中途半端な時間に会議があったせいか、課の営業マンたちも今日はもう外回りには出ずに、伝票処理や見積りなどの溜まったデスクワークに勤しんでいる者が殆どだ。広瀬もその一人で、得意先のフロア工事の見積りを出しているところだった。
「今日は珍しく営業の人が社に残ってるし、今出掛けてる佐藤さんも、もう戻るんですって」
「うん」
なんとなく様子を伺うように、高橋が続ける。
「私たちも今日は定時にあがれそうなんです。それで…、今日は二課全員、今のところ広瀬課長以外七人、アフター5空いてるんですけどー」
広瀬は思わず苦笑していた。――要するに飲みに連れてけ、ってことか。残業が多いのはいつものことだが、成績不振だった前期末は飲み会どころじゃなかったなと、思い当たる。
「そうだな、それじゃ今日は早めに切り上げてみんなで飲みに行くか」
「え、ホントですか!」
高橋が嬉しそうに確認する。
「ああ。久しぶりだし、今日はスポンサーになってやるよ」
途端にまわりのデスクで歓声があがる。真面目に仕事をしている振りをして、実は他の連中も聞き耳を立てていたらしい。
「さすが広瀬課長。太っ腹!」
こういう時だけ元気な若手社員が囃し立てる。
「ああもう、いいから仕事しろよ長谷川。今日までに回ってきた伝票は全部値つけしとけよ。定時までに終わらなかったら追いてくからな」
「えー! そんなぁ、こんなに溜まってるのに無理ですよー」
机の前の厚さ五センチはありそうな受注票を前に情けない声を出した長谷川に、高橋が追い打ちをかける。
「自業自得です。いっつも溜めてるんだから、長谷川さんは。そこで止まっちゃうとあとで事務が大変なんです。早く回して下さいね」
「――はい、すんません」
高橋の容赦のない言葉に、小さくなる長谷川。
彼らのやりとりを笑って見ていた広瀬だが、ふと思い出したように電話に目を遣る。本当はもし早く終わるようだったら、陽深に連絡を取ってみるつもりだった。だが、
(…電話はまだないんだったな、アパートには)
思い出して広瀬は苦笑する。住所不定のくせに、陽深は携帯電話を持っていなかった。
陽深と知り合ってもう一ヶ月あまり。あれから暇を見つけては何度か二人で飲みに行った。最初はホテル暮らしだった陽深だが、思ったよりも滞在が長くなりそうだからと、彼は小さなアパートを借りた。広瀬は、今日あたり訪ねてみようかと思っていたのだ。
(明日、外回りの途中にでも寄ってみるか)
考えてみれば、おかしな関係だった。
独身で自由業の陽深はともかく、仕事に追われ家庭もあり、旧友ともなかなか会う機会を作れないでいる広瀬が、陽深に会うために一生懸命に時間を割いている。
だからといってなにか特別な関係というわけでもなく、ただ会って、とりとめのない話をしているだけ。広瀬のするありきたりの、会社や娘の話を、陽深は楽しそうに聞いている。とくに家族の話をよく聞きたがった。
けれど陽深の方は、自分のことをあまり話そうとはしない。
意外といっては失礼だが、絵だけで食べていけるプロの画家らしいということと――決まった画商にすべてを任せ、自分はただ絵を書くだけの生活だと言っていた――、家族はいなくて、一人でいろいろな場所を転々を旅していること。
それが今、広瀬の知っている陽深のすべてだった。
小春日和の穏やかな午後。鴨川沿いの河川敷からは五山の深い緑がよく見渡せる。時折川面を渡ってくる風は、冷たいが頬に心地いい。
陽深は、茶色く乾燥した芝生に腰を下ろし、クロッキー帳に水彩画を描いていた。
ふと、すぐ横に暖かい気配を感じて振り向くと、小さな女の子が斜め後ろから覗き込むようにじっと絵を見ていた。
自分の方を振りかえった陽深に、女の子は屈託のない笑顔で笑い、絵を指さして聞いてくる。
「これなあに?」
小首を傾げて聞いてくる可愛らしい仕草に、陽深は思わず微笑んで答える。
「橋だよ」
「これは?」
「山」
「これは?」
次々と聞いてくる少女に、一つ一つ答えてやる。
「あっちのお山を描いてるのね?」
ひと通り聞いた後、陽深が向かっていた方角の山を指さして言った。
「そうだよ」
「ふうん。――きれいね」
「しばらくじっと絵を見つめると、陽深の方を見て言った。
「ありがとう」
「どおいたしまして」
お礼を言った陽深、誰かの真似か、そう言いなさいと教えられたのか、ぺこりと頭を下げてみせる。
まだ、二、三歳くらいだろうか。ニットのワンピースに、タイツにマフラー、今は外して首から紐で下げているミトン。両側で緩く三つ編みにされた柔らかな髪も毛糸で結ばれていて、全身がふかふかの毛糸玉のようだ。これくらいの子供はみな愛らしいものだが、この女の子は、愛嬌のある綺麗な顔立ちをしている。大きくなったら、きっと美人になるだろう。
「あのね、お花」
「え?」
ぼんやりとそんなことを考えていた陽深に、女の子がふいに、描きかけの絵の、山の部分を指さして言う。陽深は思わず山に目を遣ったが、もちろん花など咲いていない。
「お花?」
聞き返した陽深に、頷いて続ける。
「そう。描いて」
それを聞いて、彼女の言いたいことがわかった陽深は、クロッキー帳を捲って聞く。
「お花好き?」
「うん」
元気よく頷く。
「どんなお花がいい?」
「んとねー、百合のお花」
陽深は、新しい頁に大きく百合の花を描き始めた。
薄いピンクを使って、さらさらと描いてゆく。きれいに開いた花弁と、膨らんだ蕾。優しげな、けれども凛とした、笹百合。
「きれいね、ピンク。かわいいね」
目の前で形になっていく花の絵を見て、はしゃいで言う。
「ゆり!」
少し離れたところから、声がした。
「ママ!」
女の子が返事をする。
「急に姿が見えなくなったと思ったら…、びっくりするじゃない。探したんだからね、もう。心配するでしょ」
まだ若い、明るい感じのきれいな女性が近づいて来る。
「すみません。なにかご迷惑をお掛けしませんでした?」
座ったままの陽深に、自分もしゃがみ込むと、女の子を抱き寄せ申し訳なさそうに言った。
「いえ、とんでもない」
丁寧に話しかけられて、慌てて首を振る。
「あら、きれいな百合。絵を描いていらしたんですね、素敵」
彼女は陽深の手元を見て微笑んだ。
「ね、きれいね、お花」
女の子もいっしょになって、嬉しそうに声を上げる。
陽深はそのまま手早く描きあげると、その頁をちぎって女の子に渡した。
「そんなせっかくお描きになったのに」
慌てる母親に、
「よかったらもらって下さい。ゆりちゃんのリクエストだったんです」
陽深はそう言うと、ゆりに向かって、ね。と首を傾けて微笑んだ。
「ね、ゆりのね」
同じように愛らしい仕草で答える。
「すみません、やっぱりお邪魔していたみたいですね」
「いえ、そんな。僕の方こそ相手をして貰ってたんです。子供は好きだし」
優しい笑顔でそう応える陽深に、若い母親は好感を持ったようだった。
「ほら、ゆり、お礼は?」
「どうも、ありがとう」
母親に促されて、棒読みの大きな声でふらつくぐらい頭を下げながら言う。
「はい。どういたしまして」
丁寧に答える陽深に、母親は子供を抱き上げながら聞いた。
「ここへは、よくいらっしゃるんですか?」
「ええ、ときどき」
「私たちもよくお散歩にくるんです。またお会いできるかもしれませんね」
そう言って笑いかけると、母親はまた丁寧に礼を言って、離れてゆく。
「バイバイ」
母親に抱かれて、肩越しにゆりが手を振る。
手を振り返す陽深に、見えなくなるまで、降り続けられた小さな手。
ゆりちゃんか――。
陽深は、ふと最近知り合った不思議な男のことを思い出していた。彼の娘も、たしか同じ名前だったはずだ。
まっとうな、良識ある社会人。有望そうなビジネスマンで、ちゃんとした家庭を持った、地に足のついた人間。
世間ではけして珍しくはない、けれど陽深の身近には一人もいなかった人種。今も、昔も。
彼がなぜ、自分のような人間に興味を持ったのか、最初は戸惑った。だが陽深にとって彼のような人間が目新しいように、彼らから見れば自分は、風変わりで珍しい存在なのだろうと、納得した。
自分とは、明らかに違う。
どこにも接点を見いだせない人間のはずなのに、彼と過ごす時間は、不思議と居心地がよかった。
身寄りもなく、今まで友人と呼べる人間の一人も持ったことのない陽深にとって、必要以上に他人と近づくことは、落ち着かない、気疲れするものでしかなかったはずなのに。
けれど陽深は、本当はずっと、彼のような人間に憧れていた。
社会的に認められた存在。そして何よりも、暖かい幸せな家庭を持った――。そんな普通の人々を、彼はいつも遠くから、諦めと憧れを持って、ただ眺めていた。
――ごく普通の、誰にでも手に入りそうなものを、どうしても手に入れることのできない人間がいる。人がどんなに望んでも得られないものを、自然と生まれ持つ人間がいるように。
「川合くん?」
広瀬は声をかけながら、そっとアパートのドアを開ける。ノックに返事がなかったが、ノブを回してみると鍵は掛かっていなかった。陽深から聞いた住所は、この部屋で間違いないはずだったが…。
ドアを開けると、右手に小さなキッチンのついた、がらんとした八畳間。絵の具と、壁に立て掛けられた何枚かのキャンバス。立てたままのイーゼル。あとは、小さなストーブと鴨居にかけられた何着かの服。最小限度の生活用品さえ、揃っているのかどうか怪しい、生活感のない部屋。
「いくらなんでもカーテンくらいはつけないと…、これじゃ寒いだろうに」
玄関口に立ったままそんなことを考えていた広瀬の耳に、吹きさらしの階段を上る足音が響いてきた。戻ってきた陽深は、部屋の前に立っている広瀬に気付くと、足を速めて近づいてくる。
「いらっしゃい」
少し恥ずかしそうな笑顔で、言う。手にはコンビニエンスストアの袋を提げていた。
「鍵、開いてたよ」
「ええ、いいんです。盗られるようなものなんてないから」
陽深は先に部屋に上がると、広瀬を招き入れる。
「どうぞ。何もない部屋ですけど」
広瀬は、部屋に上がって中を見回す。
「――へえ、前がすぐ鴨川なんだね」
窓辺に立った広瀬が、外を眺めながら言った。
風呂無しトイレ共同の古い木造アパート。今どきまだこんなアパートが存在するのかと驚くくらいのレトロなアパートだが、学生の街でもある京都には、まだこういう建物は現役で残っている。
とはいえ、このあたりは京都市内でも屈指の高級住宅街だった。よくこんな物件を見つけたものだと思う。
「ええ、だからここに決めたんです。とてもいい眺めでしょう? 畳も入れ替えてくれたし」
薬缶を火にかけながら、嬉しそうに言う。
そう言われてみれば、まだ青い畳。真新しい藺草の匂い。
「でもこれじゃ、寒いし不便だろう。適当なマンションとかは見つからなかったの?」
彼は金銭的には困っていないはずだと思う。ここの前に陽深が滞在していたのは、名の知れた高級ホテルだった。
「鉄筋コンクリートって、ほんとはあんまり好きじゃなくて…。ホテルの場合はもう仕方ないけど。もとが田舎育ちだから、畳の感触とか、土や水の匂いのあるところが好きなんです」
「まあ確かに、――畳の方が落ち着けるな」
広瀬は、コートを脱いで座り込んだ。
なんとなく、間が空いてしまい、広瀬は流しの前に立ってお茶をいれている陽深に、かける言葉を探す。
「電話は…、つけないの?」
携帯をもっていない陽深と連絡をとるのは難しい。ホテルに滞在している間は部屋に回してもらうことが出来たが。
「そうですね…。せめて携帯をもってくれって、言われてるんだけど」
「――誰に?」
広瀬は、ほんの一瞬躊躇して、聞いた。
「画商さん」
なんのためらいもなく返ってくる答え。誰だと思ったというのだろう。
広瀬は自分のなかにわき上がった疑問に、戸惑う。家族はいないと云っていたが、親しい人間の何人かはいて当然だ。友人とか、――恋人、とか。
「――でも、ここに住むなら、持った方がいいんでしょうね。ホテルみたいにメッセージも預かってくれないし。広瀬さん、今日は仕事は?」
陽深の声に、我に返る。
「え、――いや、もう終わったんだ。今日は得意先から直帰するって、言ってあるから」
そう云って、広瀬は腕時計に目を遣る。
四時半か――。まだ、こんな時間かと思う。冬の陽は落ちるのが早い。夕暮れ時の太陽に、部屋の中が黄色く染まってきている。
部屋には卓袱台もなかったので、陽深は湯呑みの載ったトレイを、畳の上にじかに置いた。
「ごめんなさい、家具が揃ってなくて」
「俺は構わないよ…、まだ引っ越したばっかりだし、そのうち徐々に揃ってくるよ」
そう言った広瀬に、陽深は曖昧に笑って応える。
「あまり物を増やすと、出ていくとき大変だから…」
そんなに長くいるつもりはいないという、含みのある言葉。
ずっとここにいればいいのに――。広瀬は言いかけた言葉を呑み込む。たとえ冗談でも、自分がそんな言葉を口にするのは無責任な気がした。
友人と呼ぶには、どこか不自然で曖昧な関係。けれどもう、ただの通りすがりの他人ではなかった。少なくとも広瀬にとっては。
はっきりとした位置づけのできない二人の関係に、ふさわしい呼び名のない感情に、広瀬は戸惑いをおぼえていた。
真冬だというのに、相変わらず薄手のセーター一枚きりの、陽深。ゆったりした白っぽいグレーのセーターは首周りも少し大きくて、髪を束ねているせいか白い首筋が余計に寒々しい感じがした。
「髪――、下ろせばいいのに」
広瀬は、無意識に陽深の髪に手を伸ばしていた。
「え」
陽深は、急に伸びてきた手にびくりと首を竦め、思い切り身体を引いた。
「その、寒いかと思って――」
そんな陽深の反応に、広瀬はばつが悪そうに、宙で止まった手を引っ込める。
「下ろすと邪魔だし、首にあたるとくすぐったくて…」
陽深の方も、目を伏せてどこかぎごちない様子で答える。
「どうして、伸ばしてるんだ?」
「伸ばしているわけじゃないんだけど…、床屋に行くのが苦手で、滅多に行かないから。前は自分で適当に切れるけど、後ろはできないし…」
なんとなく、沈んでしまった雰囲気。重い沈黙を先に破ったのは、陽深だった。
「あの…、夕日がきれいだし、外にでませんか?」
しんと、凍てつくような空気。黄昏どきの川沿いの遊歩道には、彼の他に人影はなかった。
ゆっくりと二人ただ並んで歩く。ふいに、陽深が口を開いた。
「さっきは、――ごめんなさい」
「え」
急に謝られて、広瀬はなんのことだかわからない顔をした。
「その、人に触られるのって、馴れてなくて…。だから、床屋さんも苦手なんですよね」
そう言って、ぎごちない微笑みを浮かべた。
「ああ…、いや、俺の方こそ。ついなんとなく…。悪かったね、触られるのが嫌いな人っているもんな」
なんとなく後ろめたい気分で、言い訳をした。
「嫌い、とかじゃないと思うんですけど…」
「え?」
小さな声で呟くように言った陽深に、広瀬は聞き返す。
「馴れてないんです。そういうスキンシップ?みたいなの、――子どもの頃からなかったし、ずっと」
広瀬の方を見ずに、前を向いたまま続ける。
「ずっと、って…」
先を促すかのような広瀬の言葉に、陽深はそのまま、呟くように続けた。
「僕はね、不義の子なんです」
そう言って、薄い、笑みの形に唇が歪む。えらく古風なその言い方に、広瀬は一瞬言葉の意味がわからなかった。
「父には別に家庭があって、戸籍上は認知をしてくれていたし、裕福な家の人だったから、成人するまで養育費は出してくれていたけれど、父と過ごした思い出なんて一つもありません。――僕が育ったのは、田舎の、とても保守的な村だったし、父の家はその地方の名家だったけれど、母はもともとその村の人間じゃなくて『よそ者』だったから…、妾だとか、売女だとか、母一人が悪者でした」
ただの世間話をするように、淡々と話す陽深。視線は爪先に落としたまま、一度も広瀬の方を見ようとしなかった。
「母は自分を守るのに精一杯だったし、父に捨てられないように、ただそれだけに一生懸命なひとだったから…。子どもに関心はなくて。――その母も早くに亡くなってしまったし」
陽深は小さく息をついて立ち止まり、視線を川べりへ移す。
いつもより、やけに耳に付く水音。自分の吐く白い息の向こう、ざわめくように乱反射する冷たい川面。広瀬は冷たくなった指を、コートのポケットの中で握りしめた。
今まで、ずっと聞きたくて聞きそびれていた陽深の生い立ち。こんなふうに聞いてしまって、よかったのだろうか――。
黙ったままの広瀬を、陽深は初めて振り返った。
「僕は、父にも母にも、手を繋いでもらったり、頭を撫でられたり、抱きしめてもらったり、そんな記憶がほとんどなくて。…馴れてないんですね。だから、人に触れられるのは嫌いなんじゃなくて、少し、怖い」
そう言って、微笑んだ。
怖い――。そう口にしながら微笑む陽深に、広瀬は押さえきれず、手を伸ばしていた。驚かせないようにゆっくりと、陽深の頭に手を置いてそっと引き寄せ、包み込むように抱きしめる。陽深は一瞬身体を硬くしたが、徐々に力は抜け、黙って身体を預けてきた。
頬にあたる滑らかな頬、華奢な肩のライン。仄かな匂い。腕の中にある確かな温もり。
――突然、広瀬は陽深の身体を手荒く押し剥がした。 いきなりの広瀬の仕打ちに、呆然としている陽深。広瀬は動揺のあまり言い訳すら浮かばない。あろうことか、腕の中の陽深に、男として反応してしまっていたのだ。固まったままの陽深以上に、広瀬は自分の反応に動転していた。
「あ…、その、――ごめん! 急に用を思い出して…。また、連絡するから」
腰を引いてなんとかそれだけ言うと、広瀬は陽深を残して、逃げるようにその場を立ち去った。
「ただいま」
暗い声で、マンションのドアを開ける。
「パパ! お帰りぃ」
飛び出してきた娘を、広瀬はしゃがんで抱きしめる。
子供特有の、少し埃っぽいような匂いと、柔らかい弾力。小さな腕を首に巻きつけてくる優里。そのまま止まってしまった広瀬に、優里は顔を傾ける。
「パァパ?」
こんなふうに、父親のつもりで抱きしめたはずだったのに――。
「いつまで感動の再会をしてるのかしら?」
涼子が、いつまでも玄関先で抱き合っている親子を呆れたように見ていた。その言葉に我に帰った広瀬は、そのまま優里を抱き上げて部屋に上がる。
「お帰りなさい。珍しいわね、こんな時間に帰ってくるなんて」
「ああ、今日は直帰してきたから」
「そう、お疲れさま。でも――、ごめんなさい、ご飯まだ出来てないの。もう少し待っててくれる?」
そう云って手を合わせると、上目遣いに広瀬を見上げる。
「いいさ、まだ早いしそんなに腹へってないから。優里と遊んで待ってるよ」
「ごめんね」
涼子は、慌てて台所に戻る。 広瀬の後をちょこまかとついて回る優里に、着替えながら聞く。
「今日は、何をして遊んだの?」
「えっとね――」
まだよく回らない舌で、一生懸命話すのを聞いてやりながら思う。
人の家庭の事情に簡単に他人が首を突っ込んだり、詮索するのはよくないことだと充分承知している。結局、他人にはどうしてやることも出来ない問題だということも。
けれど――。
すぐ近くにいるのに、遠い場所からこちらを眺めているかのような、優しい瞳。何事にも執着しない、世俗から逃れて生きているかのような彼の生き方の理由が、なんとなく理解できたような気がした。
「パパ?」
もの思いに沈んでしまった広瀬の額に、優里が手を伸ばす。
「ああ、ごめん。なんでもないよ」
黙ってしまった優里に笑いかける。
「なあ、優里。パパのこと好きか?」
「うん! 好き」
考えるまでもなく、すぐさま帰ってくる答え。
「大好きのチュウは?」
頬を差し出すと、音を立ててキスをしてくれる。酔っ払ったときなど、しょっちゅうこうして娘に構っている広瀬だった。
「パパも優里のこと好きだよ~!」
おどけて言う広瀬に抱きしめられて、優里がきゃっきゃと歓声をあげる。 キッチンから二人を呼びにきた涼子が、その楽しそうな光景に苦笑して言った。
「もう、危ない親子ねー。外ではやらないでね、隆尚さん。ロリコンだと思われるわよ」
そうして、ソファに座っている広瀬のすぐ横に腰を下ろす。
「なにかあったの?」
心配そうに顔を覗き込む。
「いや、…なんでもないよ。ちょっと、――自己嫌悪に陥ってるだけ」
そう力なく微笑む広瀬に、
「そう――。じゃあ、ご飯食べて元気だして。おなか空いてると余計暗くなっちゃう。今日は隆尚さんの好きな麻婆茄子よ。ちょっと自信作なの」
何も聞かずに笑ってそう言うと、広瀬の手を引いて立ち上がった。
「ご飯、ご飯!」
優里も嬉しそうに立ち上がる。
「ああ、そうだな」
――明日、陽深に謝りに行こう。広瀬はそう思いながら、食卓に向かった。
もう陽も落ちて薄暗い河川敷。陽深はもうずっとそこに座り込んでいた。 やっぱり、嫌われてしまったのかな、と思う。ふいに胸を刺す、小さな痛み。
こんなふうに、誰かに自分から昔の話をしたのは初めてだった。今まで、別に隠しておきたいと思っていたわけではないけれど、誰かに聞いて欲しいとも、思ったことはなかった。
今さら、こんな痛みを感じるなんて、我ながら不思議だった。
陽深は、人から嫌われることには馴れていた。村人から、本家の人たちから、ずっと疎んじられてきたのだ。学校でも、いじめに会うのはごく日常的なことで、教師たちでさえ見て見ぬ振りをしていた。だが、どんなに苛められても何の反応も示さない陽深に、そのうち子供たちも構わなくなる。
そして、無視されることは、陽深にとってはそんなに辛いことではなかった。一人で下手な絵ばかり描いている変わった子供だと噂されても、放っておいてくれさえすればそれでよかった。
高校へ上がって村を離れても、陽深の生い立ちを知った同級生たちは、いつもどこか遠巻きに彼に接していた。それは、陽深が幼いときから自然と身に付けてしまった他人との距離感、近寄りがたい雰囲気のせいでもあった。友達の一人もおらず、いつも一人で絵を描いている。それが陽深にとっての、普通の生活だった。
東京の美大に進み、誰も陽深のことを知らない人間ばかりのなかにあってもそれは同じことだった。
だがそんな中、変わり者だと評判の陽深の才能を早くから認めてくれていた春日教授と、教授から紹介された画商の早川だけが、いつしか彼の理解者となっていた。
彼らに対しては、感謝を尊敬の念を抱いている。しかし陽深は昔から、誰かに理解されたいとも、好かれたいとも、願ったことなどなかった。人嫌いというのとも少し違う。嫌いになるほど、人は陽深から近いところにいないのだ。川の向こう岸に住む人々の日々の営みを、ただぼんやりと眺めている――。今まではそんなふうに、陽深は人と接してきたように思う。
そして気がつくと、陽深の目の前に、手の届く距離に、立っていた広瀬。 けれど――。
陽深は小さく溜め息をつく。それでも、やっぱり広瀬は向こう側の人間なのだ。と思う。
差別する側の、哀れみ同情する側の、常に「する」側の幸せな人々。妬んだり、羨んだりするには遠すぎる。それなのに、いったい自分は何を期待していたのだろう。
吐く息が、白く霞む。身体の芯まで凍えそうな冷たい石段。冷たい空気。 陽深は立ち上がり、踵を返す。
ここに長く、居すぎてしまったのだろうか――。
今日は早めに切り上げるはずだったのに、思わぬ納材ミスで、広瀬はなかなか会社を出ることが出来なかった。
(もう七時か)
ちらりと時計に目をやり、急いで帰り支度を始める。まだ残っている部下より先に帰るのは気が引けるが、少しでも早く陽深に会って話がしたかった。あんなところで、あんな別れ方をして、どんなふうに思われているかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
そのとき、仕事用ではなくプライベートのスマホに電話が入った。発信元を見て、驚いて電話に出る。
「高村か? どうしたんだ、珍しい」
高村は高校、大学時代からの悪友で、涼子の兄だった。
『今な、京都なんだよ』
「仕事か?」
『そう、取材旅行。さっき着いたんだけど、取材は明日からだし、もし今から空いてたら飲みに連れてけよ。こっちは勝手がわかんなくてな』
「暇なら家にくりゃいいのに、涼子も喜ぶし」
『相変わらずわかってないな、おまえは。あいつが喜ぶわけないだろ。邪魔者扱いするに決まってる』
憮然とした口調で、高村が言う。本当は仲が良いくせに、この兄妹は会えば憎まれ口ばかり叩いている。
広瀬は苦笑し、今日は都合が悪いと言いかけて、思い出す。
高村は、美術雑誌の編集者をしている――。もしかしたら、陽深のことを知っているかもしれない。
「――わかった。今、どこなんだ?」
『五条の東急ホテル』
「じゃあ、七時半にロビーで」
「久しぶりだよな、おまえとこうやってゆっくり飲むのも」
ヘビースモーカーの高村が、片時も離さないピースを吹かしながら口を開く。
取りあえず、軽く腹ごしらえをした後、彼らは繁華街の外れの静かなバーに腰を落ち着けた。
「ほんとだな。――仕事のほうは、どうなんだ」
「相も変わらず、売れない美術雑誌のヒラ編集者だよ。まー、仕事自体は好きでやってることだけど、サラリーマンは哀しいね。今回の取材だって、うちのヘボ編集長の命令で否応なしだよ。『今も古都に眠る幻の名品』だとさ。使い古しもいいとこの特集だよな。今さらどんなご大層なもんがあるってんだ。ネタに困ると京都に逃げるんだから、安易だよなぁ」
口の悪いのもいつものことで、面白くなさそうな高村の口ぶりを広瀬は笑って聞いている。
「どうせここまで飛ばされるんなら、取材した画家もいたのに」
「画家って?」
高村は聞き返してくる広瀬を意外そうな面持ちで、見遣る。
「美術オンチのおまえに言ったって。わかんねぇと思うけど」
いつもなら聞き流す話題に水を向ける広瀬に、高村はそう言ってジントニックに口をつける。
確かに聞いても多分わからないとは思うが、陽深のことを聞きたい広瀬は、不自然にならないように話題をそっちに持っていきたかったのだ。
「川合陽深っていう、最近注目されだした若手の風景画家」
思いがけない名前に、水割りを運ぶ広瀬の手が止まる。
「川合、陽深?」
なにげなく言ったつもりだったが、動揺は隠せない。まさか、いきなりその名前が出てくるとは思わなかった。
「知ってるのか?」
少し驚いたような顔で聞く高村。
「いや、――どこかで名前をきいたことがあるような気がして」
曖昧に答える広瀬に、高村は名前ぐらいならなと呟く。
「まあ、ここ一、二年で随分知られるようになってはきてるから」
「どういう、画家なんだ?」
「んー、変わってるっていうか、かなり異質なタイプだな。今の画壇の中では。普通はみんな、芸術家っていうと、ゴッホみたいなどっか紙一重な天才を思い浮かべがちだけど、ああいうのはほんの一握りでさ。今売り出そうと躍起になってる若手の連中や、大家ぶってふんぞり返ってる連中の大半はただの俗物だよ。才能より自意識の方が先走ってて、自己顕示欲の強さと個性を履き違えてる。そんで、そんなちょっと目新しいだけのつまんない絵だって、売り方次第で結構簡単にさばけるし、テクニックと過去の賞歴に頼ったヌルい絵でも、投資対象か見栄か知らんが、買うバカは今でもいる。内情知るとかなりうんざりする世界だぞ。――そんな中で、彼の存在はある意味救いだね」
そう云ってグラスを空けた。毒舌家の高村にしては珍しく、かなり彼をかっているような口振りだった。
「彼を見出したのは、この世界ではかなりやり手で通ってる早川って画商なんだけど、この爺さんが曲者でさ、画商であると同時に大した蒐集家でもあるんだ。あの爺さんのコレクションは、死んだら間違いなく彼の名前がついた、有名コレクションになるぜ。――ま、確かに画商なんて商売は趣味がこうじてやってる輩が多いのは確かなんだか、いわゆる「商売になる絵」と本物の芸術ってのは別なんだ。商売人としても一流で、なおかつ最高の鑑識眼も持ってる。そんな画商って、実はいそうでいないんだよ。その爺さんが見つけてきたんだ、どっちにしても名が売れる。そのうえ、彼の作品の一番の所有者がその早川個人なんだ。画廊じゃなくてね」
いつものことだが、こういう話には饒舌な高村。いつもはただ黙って聞いているだけの広瀬が、珍しく口を挟む。
「彼、――川合陽深自身については、どうなんだ?」
「それなんだよ、俺が知りたいのも。こいつがなぁ、いわゆる山下清みたいな放浪タイプの画家でさ。全然居場所が掴めないんだよ。誰の弟子でもなく、どの派閥にも属してなくて、マスコミ嫌い。コンタクトが取りにくいことこの上ないよ。早川のおっさん経由でアクセスしても、音沙汰なし。実は、うちの雑誌でも近々小特集組ませて貰えることになってるんだけど、今現在生きてる作家なんだし、インタビューくらいは載せたいんだがなぁ」
二杯目のバーボンのロックを舐めながら、高村は大きく溜め息をついた。
広瀬は、高村の話に正直驚いていた。確かに陽深は、質素な見かけや生活とは裏腹に、金銭感覚は鷹揚で、ホテル暮らしをしていたり、ボロとはいえ、鴨川沿いの高級住宅地にあるアパートをぽんと借りたり、お金に不自由している様子はなかった。
でも、だからと云って注目を浴びている新進の若手画家という印象はまるでない。広瀬はなんとなく彼に対して、「売れない絵描き」というイメージを勝手に抱いていたのだ。金や名誉や、そういう俗っぽいものとは遠いところにいるような、そんな存在のように思っていた。
「会ったことは、ないのか」
「顔を見たことくらいはあるけど。でも、――そんときは驚いたよ。最初は歳も略歴も知らなくて、絵の印象から、なんとなく悟った感じの老人をイメージしてたから。あんなに若いと思わなかったよ。今年、二十八らしいけど、実際より若く見えるしな。けど、――どっか達観したような、不思議な雰囲気の青年だったな。人当たりは柔らかいけど、ちょっと近寄りがたい感じで」 「彼の絵って…、どんな感じなんだ?」
そういえば広瀬は、まだちゃんと陽深の絵を見たことがないことに気付く。出会ったときも、絵ではなく彼の横顔ばかり見ていた気がする。
「そうだな…、一言でいえば、なんか懐かしい感じの絵だよ」
「懐かしい?」
「ああ、ほとんどが風景画なんだが、どこかで見たことがあるような、どこにも在りえないような景色の不思議な絵で、対象は木や水や空や月や、よくある具象そのままで、描き方も奇をてらわないごくノーマルなタイプなんだが、構図がちょっと変わってるかな。――俺がすごく印象に残っているのは、蒼い空に白い満月、地平線までずっと風に揺れて光る薄野原の絵なんだが、その中に一箇所丸く、黄色い部分があるんだよ。よく見るとそれはキリン草の一群で――たったそれだけの、なんてことないシンプルな絵なんだけど…。どこかにほんとにそんな風景があるのか、彼だけに見えた風景なのか。それは俺にはわからんが、穏やかで、なんだかとても懐かしいような、絵だった」
高村は、彼らしくないどこか遠くを見るような、優しい表情で目を細める。
「ま、地味といえばかなり地味な絵だからな、一躍有名になったり、流行画家にはなりそうもないけどな」
しんみりしてしまった自分をごまかす様に、高村はそう付け加えた。
「そうか…」
「で、その川合陽深が今、こっちにいるらしいんだよ」
高村のセリフに、広瀬は思わず身体を固くする。
「へえ――」
「それも、もう一ヶ月以上も」
さも意外なことのように、高村が声が上げる。
「珍しいことなのか?」
「早ければニ、三日。長くても半月。それが大体彼のペースらしいからな。便宜上もっている東京の自宅にも、滅多に帰らないらしいし、この滞在日数は最長記録じゃないかな」
「よく調べてるな」
広瀬は感心したように呟いた。
「こっちはコンタクト取りたくて必死なんだけど、向こうさんがなかなか捕まらないもんでね。編集から記者から、なんでも屋は大変だよ」
肩を竦めて見せる高村に、広瀬は独り言のようにぼそりと口にする。
「ここに、――住み着くつもりがあるのかもしれない」
予想というよりは、願望。
「それはないな」
「どうして」
あっさりと言い切る高村に、ついむっと切り返す。
「どうして、と言われても困るが…。風景画家なんて、始終旅をしているもんだし、『家』のある奴はそこを拠点にするが、彼は一生、そう言う意味での『家』を持つことのない種類の人間だよ」
納得のいかない様子に広瀬に、高村が続ける。
「こういうのは、理屈じゃないんだよ。おまえみたいに地に足つけて、女房子供養って、家族と幸せに暮らしていくのも人生なら、俺みたいにこの歳になっても結婚もしないで、趣味と実益兼ねた気楽な商売やってくのも人生。川合陽深のように、どこにも定まらず、一人で放浪を続け、絵を描くためだけに生きてるような人間だっているんだ。――天才ってのは、何かと引き換えにしか手に入れられないもんなんだろうさ」
きっと陽深の生い立ちくらいは調べているだろう高村の、他人事のような言い方が、広瀬には何故か腹立たしかった。
「そういう生き方は、――寂しくて、嫌だ」
目を伏せたままそう口にする広瀬に、
「それはおまえの価値観だよ。ひとそれぞれ幸福の基準は違うし、すべての人間が同じ形の幸せを手に入れることなんてできないさ。――変わんねーな、おまえは。青いっつうか、純っていうか」
呆れたように、苦笑する。
「悪かったな」
「褒めてるんだ。どうせ俺は分別くさい年寄りになっちまったよ」
そう自嘲する高村に、広瀬はくすりと笑って応える。
「お前は昔っから冷めてたよ」
「お前は昔から、青春野郎だったしな」
意地悪く笑ってみせる高村に、口では敵わないと肩を竦める。
ふと、広瀬は時計に目をやる。
十二時十五分――。高村もつられたように、時計を見る。
「遅くなっちまったな。悪いな、こんな時間までつき合わせて」
「いや、こっちこそ――。明日、早いんだろ?」
「お互い様だろ。しかし、せっかく久しぶりに会ったっていうのに、どっかの画家の話で終わっちまったな」
高村が笑ってそう言いながら、立ち上がった。
「でも、久しぶりに会えて楽しかったよ」
広瀬は、笑ってそう答えながら考える。
(人を訪ねるには、もう遅い時間だけど――)
高村と別れたあと、広瀬はそのまま陽深のアパートに向かった。
人を訪ねるような時間ではないことはわかっていたが、一刻も早く彼に会いたかった。あんなふうに突き放してしまったことへの言い訳は、結局思いつかないままだったが、会いたいと思う気持ちに押さえれて、気が付けばタクシーを走らせていた。
どこにも留まらず、留まれない陽深――。
彼が今ここにいる理由が自分だとうぬぼれているつもりはなかったが、広瀬は、彼がこのまま黙ってどこかにいってしまうのではないかという不安に駆られていた。
今、目の前にいたのに、目を離すと次の瞬間にはもうそこにいないような、広瀬にとって陽深はそんな不思議な存在だった。
アパートの階段を駆け上がり、陽深の部屋の前に立つ。201号室、明かりはついていなかった。もう眠っているのか、それともいないのか。広瀬はそのまま、ノックもせずにドアを開けていた。鍵はかかっていなかった。
明かりもつけず、窓枠に凭れてぼんやり外を見ていた陽深は、いきなり開いたドアに驚いて振り向く。
「広瀬さん…」
広瀬が急に現れたことに驚いたというよりも、彼がそこに立っているのが不思議なことのように、立ち尽くす広瀬を、陽深は見つめる。
「あ――、ごめん、ノックもしないで」
たしかにそこにいる陽深の姿に安心した途端、広瀬は慌てふためいて飛びこんできた自分が急に恥かしくなってきた。
ドアを開けたまま突っ立っている広瀬に、
「上がらないんですか?」
どことなく、硬い声。広瀬の位置からは、暗くて表情までは見えない。
「え。――ああ」
広瀬は慌ててドアを閉め、靴を脱いだ。陽深は、動かない。
「明かり、つけないのか?」
「夜は、暗い方が安心するんです」
だんだん目が慣れてくると、カーテンのない窓から入る外の明かりだけでも、けっこう明るいことに気づく。
「どうしたんですか、こんな時間に」
何を言ってよいかわからず言葉が続かない広瀬に、陽深の方が先に口を開く。
「もう、来ないかと思っていました」
陽深の口調は、相変わらず穏やかで丁寧だけれど、どこか寒々しい感じがした。
「どうして?」
広瀬の質問に、今度は陽深が黙り込む。
「その、昨日のこと、謝りたくて…」
云いかける広瀬を遮るように、
「別に、謝るようなことじゃないでしょう」
首を振って、答える。今夜の陽深は取り付くしまもない。
「無理しなくても、いいんです」
「なにを言ってるんだ?」
訳がわからないといった様子で近づいてくる広瀬に、陽深はすっと身を引く。
触れようと伸ばした手を、広瀬は下ろさなかった。一定の距離を保とうとする陽深を、広瀬はそのまま部屋の隅に追い詰めたような格好になる。
「それ以上、近づかないで」
伸ばされた広瀬の手が、陽深が背中を押し付けている壁に、つく。陽深の頬のすぐ横に、広瀬の腕があった。目を上げれば、きっと何十センチの距離に広瀬の顔がある。陽深は、伏せた目を上げることが出来なかった。
「もう――、放っておいて下さい。僕は、人との距離をどうとればいいのか解らない…。どこまで近づいていいのかさえ、わからない。投げ与えられる同情や憐れみや、そんなものに振り回されたくないんです」
「同情?」
「可哀想だと思ったから、思わず抱きしめてくれたんでしょう? でも、後悔したから…、近づきすぎてしまったから、突き放したんでしょう? それとも、嫌悪感からですか」
震える声を押さえて、言う。
「そんな、――違う!そうじゃない」
「なら、どうして?」
一瞬、目を上げて真っ直ぐに問い掛ける。
「それは――」
口ごもる広瀬に、ふっと諦めたような笑みを浮かべる。
「もう、いいんです。どうせ、僕はもうここを離れるつもりだったんです。だから――」
「待ってくれ!――違うんだ」
広瀬は思わず、陽深の肩を掴んでいた。
「たしかに、俺は君を可哀想だと思ったよ。同情したんだ。それが、いけないことだったのなら謝る。――ただ、なにも出来ない自分が歯がゆくて、思わず抱きしめてしまっていたんだ。他人事のような哀れみなんかじゃない。君だから――。急に突き放してしまったのは…、そんな自分に驚いたからからで…。後悔なんか、してない」
「広瀬さん…」
真剣な面持ちの広瀬を、陽深は不思議そうな顔で見上げている。
広瀬は、これではまるで愛の告白だと、云ってから気付く。顔に血が上った。
「その、――とにかくごめん」
広瀬は、陽深の肩を掴んでいた手を、ぎこちなく離す。 陽深は、赤い顔をして俯いている広瀬を黙ってじっと見つめていた。
「だから、急に行ってしまうなんて言わないでくれ。俺のせいなら謝るから」
「そんな――、僕の方こそ勝手に誤解していたみたいで、…ごめんなさい。でも、そろそろ行かなくちゃいけないのは、本当なんです。広瀬さんのせいではなく」
陽深はいつもの、柔らかな口調で言う。
「何か、急な用事でも?」
「そういうわけではなくて…」
言葉を濁す陽深に、不安を掻き立てられる。
「じゃあ、どうして? ――この街は、気に入らなかった?」
「いえ――」
曖昧な笑顔で、首を振る。
「どこか行きたい場所でも出来た?」
「いえ、まだ具体的には」
「じゃあ、せっかくアパートまで借りたんだし、ここを拠点にしてしばらくは関西近辺を回ってみてもいいんじゃないか?」
広瀬は、このまま陽深を行かせたくなかった。
「そうだ、もしよければ今度一緒に旅行に行かないか?」
「え?」
「関西近辺なら、普段営業で回ってるから詳しいし、自然のきれいな場所も知ってる。――その、もし嫌じゃなければの話だけど」
最後の方は、さすがにおずおずと付け足した。繊細で、誰かと一緒にいることに慣れていない陽深。広瀬は断られるだろうかと、言った端から後悔していた。
「一緒に?――連れて行ってくれるんですか?」
しかし陽深は、不思議そうに広瀬を見上げる。
「ああ、どこでも。きみの行きたいところに」
思いがけない陽深の反応に、広瀬は嬉しそうに頷いた。
「仕事があるから、週末に一泊二日くらいしかすぐには時間はとれないけど。でも、近場ならゆっくりできるし」
懸命にかき口説く広瀬につられるように、陽深は微笑って、頷いていた。
「どこか、行きたいところある?」
「どこでも――」
そう答えてから、陽深はふと、何かを思い出したように呟いた。
「――雪。…一面の、雪景色」
「雪?」
聞き返し
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