ジージージージー、しゃぁしゃぁしゃぁしゃぁしゃぁしゃぁしゃぁしゃぁ…。

 かりかりかり、かりかり、…みゃーん。



 「…う? あ、マーゴ、だめ!」

 マーゴが網戸をひっかく音に、僕は飛び起きた。

 あっつ…。少しでも風が入るようにと、カーテンを開け放した窓からの日差しと、裏山のセミの鳴き声が容赦なく部屋に入り込んでいる。

 外に出たいと、マーゴがちょっと怒ってる。いつもは穏やかな桃色の「気」が、ちょっと刺々しい。

 「ごめんね。…でも網戸掻かずに起こして」

 網戸を開けようとベッドから手を伸ばすと、待ちきれないマーゴは、ほんの少し開きかけた隙間を体で押し開くように出て行く。

 マーゴの爪が引っかかって、何度も補修した跡のあるベランダの網戸。補修用のパッチは多めに買ってあるけど、これ以上穴が開くとヤバイ。

 ホームセンターへは滅多にいかないから、コンビニで買えないようなものは行ったときにまとめ買いしてある。

 

 出て行ったマーゴを目で追って、裏山の緑に目をやる。蝉の声は煩いし、今日も日差しが強い。――外へ出たら溶けるかも。

 猫は暑さに強いみたいだけど、真夏の日中にこの部屋にいるのは拷問だ。

 だから最近、マーゴは毎日お出かけする。きっとどこか静かでひんやりしたお気にいりの場所を見つけているはず。僕もマーゴについて行って涼みたいけど、きっと人間の大きさと俊敏性では行けないところなんだろうな…。残念。



 僕も猫だったらよかったのに――。もう何千回目か分からないくらいの口癖というか思い癖?が、出てくる。



 昨日の夜からずっと頑張って首を振っている扇風機。羽の前に付けた保冷剤もすっかり溶け切っていて、生暖かい風を送ってくる。

 僕は汗だくの身体を起こして、扇風機のスイッチを切る。ご苦労様。

 そのまま僕は、お風呂場へ向かった。

 





 「おはよう、ソーヤ。…どした?」

 いつも訪れる近所の大学の図書館。
 入ってすぐの掲示板の前で固まっていた僕の上に、ふわりと降りてくる桃色の「気」。

 振り返ると、――夏だから? 髪が短くなってる。モヒカン?っていうのかな。色は金色のままだけど、てっぺんだけ少し残してトサカっぽい感じになった短髪だ。顔立ちも厳ついから、似合ってるけど厳つさが二倍。一歩間違うと田舎のヤンキーだ。

 ピンクの「気」をほわほわさせてにこにこしてるから、全然怖くないけど。

 「あ、休館かぁ。…へぇ、二週間って結構長いな」

 陸は固まっている僕の視線の先にある掲示物を見て、そう云った。

 『休館のお知らせ』

 夏休み中でも毎日開館してくれてて、ありがたいなー。って思ってた矢先。お盆を挟む二週間、図書整理も兼ねて夏季休業致します。だって。

 頭一つ上から、聞こえる陸の声。

 「残念だな。最近は皆勤賞だったのに」

 そう、試験期間中はさすがに学生も多くて避けてたけど、試験が終わって夏休みに突入してからこっち、毎日通っていた。それを知っている陸も、毎日来てたってことだけど。

 最近の僕は一人掛けのキャレルじゃなくて、ひと気のない四階の大テーブルの席をベースにして一日を過ごしていた。

 陸が来る時間帯は決まってない。
 ふらっと来て、僕の向かいの席でレポートをやったり、寝たり、本読んでたり。いろいろだけど、小一時間ほど居て、帰っていく。特に会話らしい会話はない。

 「他に人がいなくて、涼しいとこって…」

 思わず呟いていた。

 学食も夏休みに入って時間短縮されてるから、お昼時しか開いてないし。ここの学生でもない僕が入れるとこって、もうないか…。

 日中あの部屋で過ごすとか、ちょっと無理。
 かといって公共図書館やショッピングモールは人が多すぎる。ここの大学図書館は広くて天井が高くて、人が少ないから居心地がいい。大学生ってあんまり図書館を利用しないみたいだから。勿体ない話だけど。

 おかげで僕には好都合だったのに。



 人の「気」が見える僕は、人混みが苦手だ。見えるだけじゃなくて、感じるから。人間の「気」は肌を刺す。痛かったり、ざわざわしたり、ねめぬめしてたり、不快でしかない。
 だから、僕のパーソナルスペースは途轍もなく広い。

 一対一でも、近いと辛い。その人間の「気」にも依るけど、大抵無理。
 コンビニ店員との最低限の接触が限界だ。

 
 マーゴとおんなじ、この桃色の「気」を持つ彼だけが、今は唯一の例外。


 「やっぱ涼みに来てたんだ。家でずっとエアコンつけてたらもったいねーもんな。一人暮らし?」

 「エアコンないよ。一人暮らしだけど」

 「え? ないの? 死ぬよ?」

 「死なないから。夜は結構涼しいし」

 「…どこに住んでるの?」

 怪訝な顔で訊かれた。

 「この山の東側」

 この大学は山を背に建ってる。その山の方向を指して言った。

 「にしたって、暑いだろ。やっぱ一回生か。市内でエアコン無しとか、盆地の夏舐めんなよ?」

 まだ彼には僕がここの学生じゃないってのは、バレてないみたい。

 地方出身の一回生って思われたみたいだけど、今のアパートにはもう5年住んでる。

 「俺だって奨学金貰ってる貧乏学生だけど、部屋にエアコンは付いてるぞ。今どきエアコンないマンションなんてないだろ」

 「古い木造アパートなんだ」

 ここは古い街だから、前時代の遺物みたいなアパートって結構残ってる。今住んでる小さなアパートもそう。住人もほとんどいないから、僕的には快適なんだ。真夏意外は。



 「――ちょっと早いけど、学食で飯食わないか?」

 こんなとこで立ち話をしてるのを気にしてか、図書館員のいるカウンターの方をちらっとみて、陸が言った。

 毎日会ってたけど、そのお誘いは初めてだ。…怒ってる、訳ではないみたいだけど、なんか「気」が萎んできた? 薄ピンクの「気」のふちが、さわさわしてる。

 「一緒に?」

 「一緒に」

 うーん。夏休みの学食は空いてるし、僕もよく利用してる。…陸と二人なら、平気、かな?

 「いいよ」







 今は利用者が少ないから、メニューは減っている。プリンも今はお休みなんだ。残念。

 陸は日替わり定食にしてたけど、今日のメインは揚げ物だったから、僕はワカメうどんとおにぎりにした。夏は食欲が落ちる。家だと素麺ばっかりだ。

 人のいない隅っこのテーブルについて、二人でお昼ご飯を食べる。うん。大丈夫そう。この距離感だったら図書館にいるのと変わらないし。

 「休館中行くとこないなら、…俺んとこ来る?」

 「え? 無理」

 即答した僕に、

 「だよな」

 ため息交じりに陸が呟く。

 誰かの家なんて住んでいる人間の「気」で染まりきってる。絶対行きたくない場所ナンバーワンだ。…陸の「気」なら大丈夫かもしれないけど、考える前に答えていた。

 「じゃあ、誰か友達とか…」

 「いない」

 「…だよな」

 いつ会ってもひとりでいる僕に友達がいるとは、彼も思ってなかったようだ。なら訊くなよ。

 「ショッピングモールとか、公共図書館とか」

 考えることは一緒だなー。と思いつつ、うどんを呑みこんでから答える。

 「人が多いところは、無理」

 「苦手?」

 「気持ち悪くなる」

 「…そっか」



 しばらく沈黙が続いて、おにぎりをもぐもぐしていた僕に、箸を持ったまま考え込んでいた陸が口を開く。
 
 「エアコン、付けられないの? そのアパート」

 「付けられなくはないと思うけど…」

 それは、ちょっと考えた。年に何回かは、眠れないくらいの熱帯夜もあるから。そんなときはマーゴも、お風呂場の冷たいタイルの上でぺったり伸びたまま動かなくなるし。

 でも、エアコンは扇風機みたいに買って帰れない。取付工事もしなくちゃいけないし。
 知らない人が家に入り込んで、何時間もいるとか無理。それを考えると、別になくても死なないか。ってなる。ごめんね、マーゴ。

 「気」が穏やかな人が来てくれるなら少しくらい耐えられるかもけど、どんな「気」を持った人が来るかなんてわからない。あなたの「気」は痛くて不快なので違う人にしてください。なんて言えるはずもないのだ。

 「安い電気屋知ってるよ? いっぺんにしんどかったら無利子で分割払いとかもやってたと思う。なんなら工事費とかもサービスしてくれるように交渉してやるし」

 「お金の問題じゃなくて…。工事の時に家に知らない人が入ってくるのが嫌。対応とか出来ない。絶対無理」

 そこまで言うと、さすがに陸も黙り込んだ。…呆れたかな。

 人間から見て自分がどれだけ面倒くさいかくらい、自覚はある。僕になんて構わなくていいのに。

 「くっ、ははっ、マジ徹底してんなぁ、ソーヤ。そこまで人見知りな奴初めて見たわ」

 急に陸が笑いだした。…そこ笑うとこ? 「気」がふわふわ広がって踊ってるから嘘じゃない。なんで楽しそうなんだろう。

 「んー、でもなー、地球温暖化は待ったなしだし、若いからって熱中症舐めてたらマジで命に関わるよ?」

 う。そこは知恵と工夫で、なんとか…。

 「俺もだめ? ソーヤの家に入るの」

 え? にこにこ笑いながら何でもないように訊くけど、ふわふわ踊ってた「気」が動きを止めて、少し濃くなった。…緊張、してるのかな。

 「だめ、じゃない、けど」

 多分、今まで見た他人の「気」の中で、陸の「気」が一番気にならない。少しも痛くないし、気持ち悪くもない。なんなら、居心地がいいくらい。こんな「気」初めてだから、どこまで大丈夫なのか、まだわからないけど。…陸が家に来るのは、別に嫌じゃない。と、思う。

 「なら、なんとかしよう」

 陸の濃くなっていた「気」がふわりと解けた。




 この後予定があるかどうか訊かれたけど、そんなものは一切ない。

 仕事も家族も友達もない無職の僕に予定なんて、ほぼない。お金を稼ぐためにときどき競馬場に行くくらいで。
 夏は近くの競馬場での開催はないから、今はそれもない。

 エアコン見に電気屋に行こう。って言われた。早速? 

 自転車で来ていた陸は、僕を後ろの荷台に載せて走り出す。



 この辺りは山に近くて坂道が多い。通学用だろう陸の自転車は電動補助付きだけど、それでもしんどいと思うのに、彼は僕を後ろに載せてぐいぐい坂道を登っていく。

 この辺りは住宅街とはいえ、ちょっと不便な山の中、道沿いの家の後ろはすぐ山で鬱蒼とした緑が広がっていて、蝉の声が響いてる。

 ちょうどお日様は真上で、アスファルトの道路の先に逃げ水が見える。
 頭焦げそうなんだけど…、陸は大丈夫なのかなぁ。

 もうちょっと行ったら交番あるから、その前通るときは降りてくれよ。って、云いながら漕ぐ陸の背中に、汗で湿ったTシャツが張り付いてる。

 陸のジーンズのベルトループに指を通して掴んでいた僕の方へ、汗の匂いと淡いピンクの「気」が流れてきた。

 人の汗の匂いなんて、初めて嗅いだかもしれない。…思っていたより臭いものじゃないや。
 マーゴの匂いとはちょっと違うけど、同じ種類の匂いだ。生きてる動物の匂い。



 やっと平地に出たと思ったら、先の方に交番の丸くて赤いランプが見えた。
 昼間だから電気は着いてないけど、赤いガラスが強い日差しを反射して、眩しい。

 停まった自転車から降りて、自転車を押す陸と並んで歩く。陸はカゴに入れていたリュックからタオルを出して、汗ばんだ僕の首に掛けた。

 「まだ使ってないから、きれいだよ」

 自分の方が汗だくのクセに。と思いながら、そのまま首に巻いて、先をTシャツの胸に入れた。

 後ろ首に日が当たってじりじりしてたからちょうどいい。景品や宿屋に置いているような薄手の白い浴用タオル。
 ハンドタオルやカッコいいスポーツタオルじゃなくて、陸がこういうの持ち歩いてるのって意外だけど。

 交番の横に自販機があったから、陸が水を買って僕にも放る。

 お金を出そうとしたら、無くなったら次買って。って言われて素直に引っ込めた。この暑さだから、確かに一本じゃたりないかもしれない。

 水を飲みながら歩いて交番の前を通過して、しばらく行くとまた二人乗り。
 今度は少し下ってるからスピードが出て、風を受けて気持ちいい。でも、スピードが出た分、お尻に響く衝撃も大きい。
 立ち乗りはちょっと怖いから、段差で少しお尻を浮かしてやり過ごす。

 二人乗りなんて、おじいちゃんが畑に行くときに乗せて貰ってた子供のとき以来だ。


 そうやって僕は、街中の大きな量販店ではなく、住宅街のなかのこじんまりした電器店へ連れていかれた。

 店に入ると、ぴんぽーん、とのんびりした音がなって、奥からおばさんが出てくる。

 「あら、いらっしゃい、陸くん。どしたん、こんな暑い時に自転車できたんか?」

 いや、おばあさんかな。微妙な年頃だ。彼女の周りを漂っている「気」は、柔らかいブルーグレー。愛想のいい見た目に比べて、あっさりした寒色系の「気」。

 中に入っていく陸と離れて、店の入り口辺りで止まっていた僕は少しほっとした。

 「気」は生命力の現れなのか、大抵は、子どもほど広がりが大きくて、幼稚園児とか小学生の群れになると混ざり合って混沌としてるし。
 十代から二十代にかけての若者が一番攻撃的で強い。
 そして歳と共に弱まるのか、お年寄りのは薄くて、こじんまりしてる。

 とはいえ人に依るから、お年寄りでもどぎつい「気」の人間もいるけど。

 だから、僕にとっては年配の人と接する方が比較的楽なのだ。
 彼女も年相応に落ち着いていて、あまり大きく広がらない「気」だから近づき過ぎなければ大丈夫。

 「安いエアコンないかなって思って。型落ちとかでもいいんだけど。涼しくなればそれで」

 「ほやなぁ、そやったら…、こっちのメーカーの去年の在庫が今安う入るって言うてたわ。今年新機種が出たさかい」

 おばさんはそう云いながら手を伸ばして、棚からカタログを取ってぱらぱらと捲る。

 表から見るより、広い店内。扇風機がたくさん並んでる。
 朝顔の造花やうちわ、簾がディスプレイされていて、夏の電気屋さんって感じだ。

 人の出入りはあまり多くないのだろう、「気」の残骸も少ない。このおばさんのブルーグレーの「気」と、レモン色?の「気」がほんの少し残ってる。
 気配は薄いから、ここにいても酔わなさそう。

 「何畳用? 洋室か?」

 訊かれて、陸が僕の方を見た。

 「部屋は、6畳と4畳半の続き部屋で和室」

 そう答えた僕に、

 「なんや、お友達のんか。ほんなら和室の12畳用やな。一台でイケるし。閉めて使うんやったら6畳用でもええけど、12畳用の方が効率がええよ。――あんまり変わらんくらいの値段にしといたげるで」

 「どうする?」

 「陸にまかせる。よくわかんないし。支払は、一括で大丈夫だよ。…今日はお金持ってきてないけど」

 「そんなん取り付けたときでええて」

 からからとおばさんが笑う。

 取り付け工事はおばさんのご主人がやってくれるらしい。この時期はエアコンの取付や修理で飛び回ってるから今日は店にいなかったけど。
 取付場所を訊かれて、一階で、昔ながらの木造アパートでベランダもあるって言ったら、それなら取付も簡単そうだからそう時間もかからないよ。っておばさんが言った。

 僕の都合はいつでもいいから、陸とおばさんで取付日時を決める。立ち合いも陸がしてくれるみたい。
 渡された工事依頼書に名前と住所と電話番号を書いて陸に返す。

 なんとかしよう。って言ったのは陸だから、僕に出来ないことは陸がなんとかしてくれるんだろう。



 僕は水を飲みながら、展示してある扇風機の風に当たっていた。

 羽の前についた薄いセロファンのひらひらが、風で靡いてる。
 これ付けたって風量も温度も変わるわけじゃないのに、なんか涼しげに見えちゃうから不思議だ。

 「終わったよ。取付は一週間後だけど大丈夫?」

 おばさんと話がついた陸が、僕の隣に立って云う。
 扇風機の風に当たった陸の「気」が広がって、僕の周りの空気が澄んでゆく。

 陸って、空気清浄機みたい。

 頷きながらちょっと笑ってしまった僕に、ん? て、陸は少し首を傾ける。

 「なんでもない」

 緩んだ頬のまま言った僕の頭を、陸は黙ってぽんぽんと撫でる。

 陸の全身から、ほわほわと桃色が溢れてた。





 帰りがけにおばさんが、お友達と食べって、陸にアイスを二本渡した。ファミリーパックのあずきバー。
 来た道を自転車を押して歩きながら、食べる。

 「美味いな。久しぶりに食べたわ。実家の冷凍庫には大抵これとチョコモナカの箱入りが入ってた」

 「僕も久しぶりかな。これ好きだけど、夏はあんまり食べないし」

 「夏じゃなくていつ食うんだよ」

 陸が笑う。僕はアイスが好きだから、年中食べる。

 「いつでも。チョコモナカも好きだよ。夏以外は」

 「夏は何食うの?」

 「チョコミント」

 「あー、確かに夏っぽいか」

 「たまに、かき氷みぞれ」

 「地味っ」

 食べ物に派手さは必要ないと思う。

 溶けないように急いで食べたら、ファミリーパックの小さ目のバーはすぐに無くなってしまった。
 帰り道、同じ自販機で同じ水を買って、僕が陸に渡した。帰りは下り坂だから、行きよりずっと涼しくて、ずっと早く帰れた。



 大学の校門前。
 このままバイトに行くらしい陸に、工事の立会いもあるし、もしもの連絡用にラインアドレス交換してって言われたけど。

 「スマホ持ってない」

 「…ガラケー?」

 「それも持ってない」

 陸が無言で固まる。持ってない人初めて見た。っていう表情。

 「家に電話はあるよ。黒電話だから、留守録は出来ないけど」

 「なんで学生の一人暮らしで、ケータイじゃなく家電…。てか黒電話って、実物見たことないんだけどまだ使えんの?」

 学生じゃないし。

 「使えるよ」

 陸はリュックから筆箱とルーズリーフを取り出し、何かを書いて千切って僕に渡すと、ポケットからさっき電気屋さんで僕が書いた伝票の控えを出す。

 「ここに書いてあるのが、家電の番号だよな?」

 そうだよ。と頷く。

 「登録しとくから、なんかあったらその番号にかけて。――なくすなよ」

 じゃあな、って走り去る陸。

 千切られた小さな紙片に走り書きされた、11ケタの数字。

 服のポケットに入れたら洗濯しちゃいそうだから、リュックの内ポケットにしまう。流れ落ちる汗を首に巻いたタオルで拭って、僕は涼しい図書館を目指して歩き出した。

 



 4日後――。

 念願の?エアコンがうちに来る日。エアコンなんてなくても死なないって豪語していた僕だけど、いざ来ると思うと、この暑さが耐え切れなくなるのはどうしてだろう。――単純にここ数日、猛暑日と熱帯夜が続いていたせいかもだけど。

 図書館通いを始めたのは今年に入ってからだけど、去年までは昼間のこの暑さをどうやって耐えていたのかすら、思い出せない。

 もう明後日から図書館が休館してしまうから、エアコンが間に合ってよかったとしみじみ思う。もしかしたら陸は命の恩人なのかも。

 そうして、首に掛けたタオルでダラダラ流れる汗を拭いながらエアコンを心待ちにしてる僕の部屋に、陸がやってきた。

 部屋の扉は開けっ放しだ。

 「ソーヤ、いる?」

 住所を頼りにやってきた陸。表札も掲げてないから、アコーディオンカーテンになってる網戸越しに、陸は確かめるように声をかけてきた。

 「いるよ」

 出てきた僕の顔を見て、陸はほっとした顔をした。

 「もうすぐ、来てくれると思うけど。俺が先に着いてた方がいいと思ってさ」

 電気屋さんが来る予定の時間の15分前。

 「暑いけど…。どうぞ」

 狭い玄関に招き入れると、陸は興味深そうに、でもあんまりじろじろ見るのは失礼かと思ったのか、遠慮がちに目を動かす。

 「気」は口ほどにものを言う。玄関に入った途端、陸の「気」が広がって、奥の方へと流れていく。興味津々だ。


 あまり物のない、ガランとした部屋。
 
 奥の6畳間にベッドと、テレビと黒電話。四畳半に年中使ってる炬燵テーブルと小さな茶箪笥。服や他の諸々は押入れの中。
 パソコンもスマホも持ってないし、新聞もとってないから、小さなテレビが唯一の情報源。

 マンションに住んでいるらしい陸からしたら、こういう古いアパートは珍しいんだろうな。と思う。

 お茶とか水とかのペットボトルがいくつも入ったコンビニ袋を、はい、って渡されたけど、

 「麦茶、あるよ?」

 夏は、毎日麦茶を沸かして冷蔵庫に冷やしてる。

 冷蔵庫からお茶のポットをだして、ガラスコップと一緒にこたつテーブルに置いたら、まめだなぁって感心された。
 家で飲むお茶をわざわざ外で買う気がしないだけだけど。持って帰るの重いし。

 コップに麦茶を注いで陸の前においたら、美味しそうにごくごく飲む。ほんとに、ごくっ、ごくって音がした。
 自転車で来たみたいだし、外は今日も暑い。部屋の中もだけど。

 陸の喉仏って、よく目立つ。
 ごつごつして骨っぽい身体だからかな。飲み下す度に、大きく上下にうごく喉仏。けっこうでっぱってる。

 じっと陸の喉元を見ていた僕に、

 「何?」

 陸が、不思議そうに訊いてくる。

 「喉仏、おっきいなって思って」

 「――そう? うーん、言われたことないな」

 陸が自分の喉を触りながら言う。その首を汗の雫が伝った。扇風機の風だけじゃ、じっとしてても汗が滲む。

 「アイス、食べる?」

 「あるんだ。ほんとは買って来ようかと思ったんだけど、この暑さじゃ、コンビニからここまでの間に溶けちゃいそうでさ」

 確かに。僕は夜中に買いに行くし、冷凍庫にたくさんストックしてある。 

 居間にくっついた板間の小さな台所。冷凍庫を開けに立ち上がった僕に、陸が付いてきた。

 「何がいい?」

 振り返って訊いた。

 「おー、いろいろあるな。…って、ほとんどチョコミント?なんだ」

 さして大きくも無い冷蔵庫を覗き込んだ陸の、驚いた顔。いつも行くコンビニに置いてるチョコミントは3種類。たまに行く反対方向のコンビニにはそれと違う2種類がある。なので今、冷凍庫には5種類のチョコミントアイスが押し込まれていた。

 お気に入りのも、イマイチだったのもあるけど、なんとなく種類を揃えておきたくて。

 暑くて食欲のない夏の朝は、朝ご飯代わりにチョコミントアイスを食べると、一瞬だけど汗が引く。
 スースーする後味が涼しく感じる。

 マーゴは嫌いみたい。

 バニラ系のアイスならときどき舐めに寄ってくるけど、初めてチョコミントアイスをくんくん嗅いで変な顏になって以来、チョコミント食べてるときは絶対寄ってこない。

 「…うーん」

 冷凍庫内を見て唸る陸。僕は最近お気に入りのカップタイプの奴を出した。

 「ミントアイス苦手?」

 「…歯磨き粉思い出すんだよな」

 あー、分かる。けど、僕は好き。

 僕は手前のチョコミント群を除けて、奥の方にあったチョコモナカジャンボを引っ張り出した。大分前のだけど、アイスだから大丈夫。

 「これは?」

 「あ、それがいい。頂きます」

 和室に戻って、藺草の薄っぺらい座布団の上で麦茶を飲みながらアイスを食べる。
 お茶を飲むと、喉がすーすーした。

 「そういえば、この喉仏ってさ、焼き場で拾うお骨の喉仏とは違うんだってさ」

 アイスを食べながら、陸がそんなことを言い出した。

 「そうなの? ――陸の喉仏おっきいから、焼いたらさぞかし立派な仏様が出てくるだろうなって思ったのに」

 「…まだ焼かれたくはないけどな。仏様の方は第二頸椎っつってちゃんとした首の骨だけど、こっちは軟骨なんだって。だから燃え尽きちゃうらしい」

 「もったいない」

 「ははっ、こっちはただのでっぱりだよ、仏様じゃねーし」

 何が可笑しいのか、陸が笑いながら云った。

 でも――、そっか、そういえば、喉仏なんか無いはずのおばあちゃんのお骨拾ったとき、ちゃんと仏様の形の骨あったなーと思い出す。
 小さくて、ちょっと崩れかけてたけど、ちゃんと仏様の形をしてた。葬祭場の人が丁寧に説明してくれていたのをなんとなく思い出す。

 おじいちゃんと二人だけのお葬式だったから、僕もちゃんと焼き場までついて行けた。おじいちゃんのお葬式の時は行けなかったけど。



 そんなことを考えていると、アパートの前に軽トラックが停まったのが見えた。

 「お、来たみたいだな。取付場所って、あそこでいいのか?」

 陸がベランダ側の窓の上を指さして言った。

 「うん。任せる。これお金」

 僕は慌てて、用意していたエアコン代の入った封筒を陸に渡して、おじさんが入ってくる前に部屋を出た。



 電気屋さんの軽トラが見える辺りからは離れずに、日陰を探して、外でぼんやり待つ。途中で、陸がお水のペットボトルと部屋にあったうちわを持ってきてくれた。

 涼しい場所を求めてアパートの裏に回ったら、空いてる部屋のベランダの下、日の当たらないひんやりしたコンクリートに囲まれて涼んでるマーゴを見つけた。
 いいなぁ、そこひんやりして涼しそう。僕の身体じゃ入れないけど。

 「もうすぐ部屋も涼しくなるよ」

 そう話しかけると、物陰の奥でマーゴが顔を上げた。こんな中でも光る目が、綺麗。

 そのうちに、バタンと車のドアが閉まる音がして、エンジン音が聞こえる。僕の部屋の方を伺うと、掃出し窓は閉まっていて、鉄柵越しにベランダに設置された室外機が見えた。

 表に回るとトラックはもう無くて、僕の姿を見つけた陸が、おかえり。って笑った。



 部屋に入ると、冷たい空気が戸口まで流れてくる。

 「生き返るだろ?」

 「うん。――でも、ちょっと空気入れ替えたい」

 「え? ああ、どうぞ」

 「ベランダの窓、開けて」

 玄関から中に入ろうとしない僕に、怪訝な顔をしながらも陸はベランダ側の窓を開けた。

 空気が流れるから、僕は外に出てドアの横の壁に凭れる。
 電気屋のおじさんの、レモン色の「気」の片鱗が流れて消える。年の割に元気な人みたいで、意外と強くてちくちくする感じだった。

 「大丈夫?」

 玄関から顔を覗かせた陸が、心配そうに僕の顔を覗きこむ。陸の「気」なら、こんなに近くても平気なのにな。
 柔らかい桃色が僕を包むように漂ってくる。うん、もう平気。

 部屋に入ると、外の熱気とエアコンの吐き出す冷たい空気が混じりあって変な感じ。
 でももう知らない人間の「気」はどこかに消えた。部屋には人間空気清浄機な陸もいるし。

 玄関扉を閉めて部屋に上がった僕は、そのままベランダへ出て、さっきの場所に声を掛ける。

 「マーゴ、涼しくなったよ」

 のそのそと這い出てくる、黒い塊。背中に葉っぱが付いてる。
 鉄柵をすり抜けてベランダに帰ってきたマーゴは、今までなかった室外機に興味津々。

 うぃーん、と案外静かな駆動音と振動に、腰は引けてるけど。

 「やっぱり猫いたんだ」

 陸が嬉しそうに、僕の後ろからマーゴを驚かせないように覗き見る。台所にマーゴの水と餌の皿と猫トイレがあるから、気付いてたよね。

 部屋の中に見知らぬ人。逃げちゃうかな?って思ったけど、マーゴはするりと部屋に入り、かがんで差し出した陸の手をふんふんと嗅いでる。
 その隙に掃出し窓を閉めた。柱に取り付けられていたリモコンを見て、設定温度を28℃に上げる。

 「初めまして、マーゴ。綺麗だね」

 みゃ。と小さく返事をするように鳴いたマーゴは、褒められたのが分かったのか、ぴんと立てた尻尾が少し揺れて、ふわふわと桃色の気が広がった。ご機嫌なマーゴの色。
 陸の桃色も、指先からふわりとマーゴの方へ流れる。

 陸の指が、マーゴの顎を軽く掻く。二人の「気」の白っぽい部分とピンクの濃い部分が混ざり合い、きれいなマーブルが出来てる。ふふ、なんか美味しそうな色。

 やっぱり、同じ「気」だ。
 色や質感は体調や感情で、幅というか揺らぎがあるけど、同質というか同類って感じ。魂が似てるのかな。

 「抱っこしてもいいかな」

 僕に、というよりマーゴに断ってから、陸がそっとマーゴに手を伸ばす。

 すんなり陸に抱き上げられて、彼の大きな腕にすっぽりハマった。抱かれるのが嫌いなマーゴが。
 背が高くて安定感があるから、居心地良さそう。いいな、羨ましい。

 「可愛いなぁ」

 陸が目を細める。猫の扱いに慣れてるっぽい。

 「猫、好き?」

 「ああ、動物はたいてい好きだよ」

 そっか。陸は友達も多いから、きっと人間も好きなんだろう。

 不意に、ぶーぶーぶーって、振動音がした。何だろう? マーゴが反応して、ひょいっと陸の腕から飛び降りた。

 「あ、――もう。タイミング悪いなぁ」

 陸がボヤキながら、ジーンズの後ろポケットからスマホを取り出した。ふうん、これがバイブとかいう奴か。音がしない訳じゃないんだ。

 陸は画面を見て、ため息を吐いた。

 「バイト先で欠員出たみたいだから、助っ人行ってくるわ」

 そう言って、電気屋さんから貰った領収書や説明書や保証書の入った袋を僕に渡すと、陸は居間に置いてたリュックを拾い上げて玄関に向かう。

 「チョコミント好きなんだったら、今度俺のバイト先おいでよ。オゴるよ」

 ?、コンビニでバイトしてるのかな?

 玄関でスニーカーを履きながら、

 「夏休み中は、けっこうシフト入ってるから。近くにきたら覗いてみて」

 そう言うと、財布からショップカードを出して、僕に差し出す。

 一ヶ月毎日違う味が食べられるという、アイスクリーム屋さん。
 住所は大学の最寄駅前近くのショッピングモールだ。モールの中ではなく、歩道に面した側の店舗だから前を通ったことはある。
 駅とか人が多いところには普段あんまり近づかないけど。

 「人気のフレーバーだから美味しいと思うよ。俺は食ったことないけど」

 ショップカードに目を落としていた僕の頭をぽんぽんして、陸がじゃあな、とドアを開ける。顔を上げた時には、パタンと扉が閉まった後だった。

 陸に頭を撫でられるのは、嫌じゃない。

 動物好きの陸だからか、怯えさせない優しい触り方をする。降りてくるほんわかした「気」も気持ちいい。

 おじいちゃん以外に触れられた記憶はないから、他の人間の触り方がどうなのかは知らないけど。

 部屋の中に戻った僕の足下に、マーゴが擦り寄る。蹴っちゃわないように気を付けながら、テレビ台代わりに横倒しに置いたカラーボックスの上、テレビの横の黒電話の後ろの壁に、そのショップカードを画鋲で貼った。土壁だけど、画鋲はささる。

 隣には、11ケタの番号が書かれた小さな紙きれ。

 他には、アパートの管理会社の名刺、もしもの時の公共機関の電話番号表、その他いろいろ。失くしちゃいけないもの、いざという時に必要な連絡先を、貼りつける場所。

 涼しくなった室内。マーゴが久しぶりに、ベッドの肌掛けの上で丸くなった。

 図書館はお休みに入るし、この部屋も涼しくなったから、もう昼間に無理して出掛ける必要はないけど。

 チョコミントアイスの、ミントのスースーする感覚と、チョコの甘さの混じりあった、不思議な味が好き。
 夏しか食べないアイスクリームだから――。

 夏休みの間に、一度くらいは出掛けてみようかな。




 * fin *
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