「車、嫌いかな?」
 
 アパートの扉を開けると、そこに陸が立っていた。何の前触れもなく。
  
 「車って?」
  
 聞き返した僕の息が白く拡散してゆく。お昼の2時過ぎ。明るい日差しの下にいても、肌を刺す冷たい空気に頬がちくちくする。
 思わず肩を竦めて身震いした僕を見て、ぼろぼろのジーンズにスニーカー、コーデュロイのジャケットに長いウールのマフラーをぐるぐる巻きにした陸が笑った。
  
 「今日は、この冬一番の冷え込みだって。夜には雪がちらつくかもって言ってたよ」
  
 ふうん。と気の無い返事をした僕に、僕の視界を遮るように立っていた陸は身体を横へずらすと、
  
 「ドライブのお誘い」
  
 そう言って、従者のようなお辞儀をした。
 陸の斜め後方、アパートの前に停められた深いグリーンのミニクーパー。小さくて、四角いけど角が丸い独特のフォルム。なんだか動物っぽい。
 トラックとか、大きくて角ばった車はちょっと怖いけど、このくらいの大きさ、こんなカタチなら、けっこう好きだ。
  
 玄関扉を開けたまま車へ近づいてゆく僕を、マーゴが追い越していく。
  
 こたつの中で寝ていたはずなのに、すばやい。
 この寒さにも負けず飛び出してきた好奇心旺盛なマーゴは、長く伸びあがって、目のようなヘッドランプに前足を掛けた。陽の光を受けた黒くてつやつやの毛並みが、ぴかぴかのグリーンのボディに映えて、きれい。
 後ろに立った背の高い陸が、セーター1枚で外に出た僕に、自分の首から外したマフラーを上からくるくる巻きつけながら言った。
  
 「授業のノートと代返のカタに借りたんだ。タイムリミットは5時。寒いけど、いい天気だし、ドライブ日和だ」
  
 僕は、窓から中を覗きこんで気付いた。
  
 「これ、…高石くんの?」
  
 呟いて振り向くと、陸がちょっとびっくりした顔で僕を見ている。あ、しまった。と思ったけど、
  
 「すごいな、ソーヤ。大当たりだ」
  
 その顔はすぐに笑顔に変わった。ライオン顔の、ちょっときつい印象の目が、笑うと途端に柔らかくなる。
  
 「別に中見たって、名前書いてあるわけじゃないのになぁ。あいつまだ学校にも乗ってきたことないし」
   
 言いながら、僕の肩越しに車を覗き込む。頬が触れそうな距離。陸の「気」が、降りてきた。
 あったかい――。冬だからかな。比喩じゃなく、体感としてほこほこする。面白いな。

 足元に視線を落とすと、いつのまにか回りこんでいたマーゴがふんふんと車を匂ってる。陸は彼女を抱き上げ、僕に手渡しながら言った。
  
 「上着とって、戸締りしておいで」
  
 何もすることがなくて、半分こたつに潜って本を読んでいただけの僕は、断る理由もなく、誘われるがまま車に乗り込んだ。
  
 乗り込んで、ああ、やっぱり。と思う。
 シートやハンドルに、ラメを振りまいたように、きらきらと金藍色の粒子が散らばっている。何度か陸と一緒のところを見かけた高石くんの、強い「気」の片鱗。

 高石くんは、見た目は幼くてまだ高校生みたいに見えるけど、冷めているっていうか、淡々とした雰囲気の青年。陸とは同じゼミで、仲は良いみたいだけど、陸が僕みたいな変人と話していても、我関せずで、僕には何の関心も無いって感じ。
 僕に近寄ろうとしない人は好感が持てるけど、彼の「気」は苦手だ。強くて、神々しすぎて。

  彼みたいな「気」は昔一度だけ見たことがある。凄く高名な阿闍梨さん?の「気」。その「気」は、きらきらしてて、強くて、まわりの空気が透き通っていくような、神々しさだった。

 その人は純粋に金色だったけど、高石君はピスラズリと金粉を混ぜたみたいな、金藍のマーブルで。どっちも凄く綺麗。
 でも、綺麗だけど、陸の「気」みたいに柔らかくないから、そのきらきらは僕の肌を刺す。
 
   
 大学の構内で見かける陸は、たいていいつも、友達に囲まれている。
 背が高くて、派手な顔立ち。美容師見習の友達に練習台にされているらしい、くるくる変わるインパクトのある髪型――今はオリーブグリーンに近い枯葉色のツーブロック。出会ったときは金髪のタテガミ頭だった――。 
 どうやっても目立つ容姿は、それだけでも人を惹きつけもるに充分だけれど、でも、それだけじゃない。 
  
 人を惹きつける人間の「気」は、淡い。

 自然にしているだけで人が寄ってきて、いつも身近に友達がいる。
 今まで僕が見た数少ないそういう人たちは、みなそうだった。外見や性格はそれぞれだが、皆淡くて、優しい「気」をもっている。普通、人間は「気」を見ることも感じることも出来ないらしい。
 それでも、何か本能的に感じるものがあって、そういう柔らかい気の持ち主に惹かれるのかな。って思う。
  
 そして、陸の「気」も、淡い。淡くて暖かい桃色の「気」。マーゴと同じ、僕を傷つけることのない、柔らかな「気」。
  




 「窓、開けていい?」
 
 せっかく暖まっている車内だけれど、そこかしこに残る陸以外の人の「気」が、僕を落ち着かなくさせる。
  
 「いいよ。暑すぎた?」
 「ううん、空気入れ替えたいだけ」
  
 あれ、どうやって開けるんだろう? 開け方が分からなくて固まっていると、うぃーんと音を立てて窓が開いた。四つとも。
 
 「すご…。自動なんだ」
  
 思わず呟いた僕に、
  
 「運転席から全部開閉出来るんだよ。もしかして、ソーヤ車乗ったことないとか?」
  
 陸が可笑しそうに言った。
  
 「子どものころ、何度か乗ったくらい」
 「え! マジ?」
  
 答えた僕に陸が驚く。そんなにびっくりすることかな?
  
 「だって運転免許も車も持ってないし、タクシーは苦手だし」
 「でも、人ごみ嫌なんだろ?」
  
 意外そうに言った陸。
  
 「うん。でも狭いとこに他人と閉じ込められているのは、もっと嫌」
  
 たとえ二人でも、狭い車内では息が詰まる。相手の「気」が空間中に広がって、侵食されそうな気がして、怖い。
 そんな目に遭うくらいなら、ラッシュは無理だけど、空いている電車やバスの方がずっとマシだった。
  
 なんとなく、間が空いて――。
 黙ったままの陸の方を見ると、なにか考え込んでいるような、ちょっと困ったような顔。「気」がざわめいている。どうしたんだろう。
   
 「車じゃない方が良かったか…。窓開けとけば、平気なのかな?――でもそれだと風邪ひかせそうだしなー…」
  
 僕に話しているのか、独り言なのか、判断がつきにくいけど。
   
 「いーよ、もう窓閉めて。寒いから」
 「え、いーの? だいじょうぶ?」
 「うん」
  
 陸は慌てて窓を閉めた。走りながら全開にしていたせいか、残っていた高石くんの「気」は、もうほとんど感じなくなっていた。まだ買ってまもないみたいで、そんなに染まってない。
  
 「陸とだったら、閉じ込められてても、へーき」
  
 陸の「気」なら、平気。痛くないから。
 そう答えた僕を、赤信号で止まった陸がまじまじと見つめる。何か変なこと言ったかな?
  
 そういえば、大学の図書館ではよく一緒になるけど、僕は本を読んだりぼうっとしたりして時間を潰してるし、陸は課題をやってるか、寝てるか。
 
 エアコンをつける時に、陸は僕の部屋へ来たけど、僕のテリトリーに彼が入ってきたって感じだったし、こんなふうに一つの狭い空間に本当に二人っきりでいるなんて、初めてかもしれない。

 そう思い始めると、なんだか急にどきどきしてきた。やっぱり密室はだめだったかな?
 でも――。不快な、嫌などきどきじゃない。なんだか、不思議などきどきだ。運動もしてないのに、変なの。
 俯いた僕に、
  
 「…買おーかな、車」
  
 陸がハンドルに凭れこんで、ぼそりと言った。腕に半分埋もれて、表情は見えない。
   
 「え?――あ、信号青」
 「やべ!」
   
 もう信号は青に変わっている。後ろの車にクラクションを鳴らされて、陸は慌てて発進した。
 変なの。
 普通の顔をして運転している陸。だけど、「気」が膨らんでふわふわ舞ってる。車内が薄ピンク色に染まって、低い天井に届いてる。
 天井近くを漂う陸の「気」を見ていた僕に、
  
 「ほんとソーヤって、猫みたいだな」
  
 陸が面白そうに言った。
  
 「え?」
 「猫ってよく、空中の何もないところをじーっと見てたりすんだろ? 何見てるんだろうっていつも不思議に思うんだけど。――何が見えるの?」
  
 僕に訊かれても、困る。確かにマーゴもよくそうやって何かを見てるけど、僕にそれが見えているわけじゃない。僕が見ているのは別のものだ。
  
 「ないしょ」
  
 漂う「気」から窓の外に視線を移して、素っ気無く答えた僕に、陸が微笑んだ。
 陸は変わってる。
 僕が何をしても、何を言っても、怒らない。出会った頃、すごくひどいことしたのに、傷つけたのに、怒りはしなかった。怒りの感情を表に出さないということではなく、怒っていない。表には出さなくても、怒っていたら「気」がいがいがするからわかる。
  
 「気」の色や、質感や、強さは人によって千差万別だけど、怒ったときの「気」はいがいがしてる。みんな。
 だけど陸は、傍若無人で礼儀知らずな――らしい。自分ではそんなつもりないのだけれど――僕にも、腹を立てない。
 変なの。
  
 「どっか行きたいとことか、ある? あんまり遠出は出来ないけど」
 「別にない」
 「んじゃ、腹は? 減ってない?」
 「少し、減ってるかも」
  
 そういえば、遅めの朝ごはん食べたきり、お昼食べるの忘れてた。よくあることだ。
   
 「食べられないものって、ある?」
 「コーヒーとセロリと肉のあぶら身」
   
 車は北へ進んでいる。街とは反対の方向。どこへ行くんだろう。流れる景色を見ながら答えた僕に、
 また陸が、くすりと笑う。
  
 「あ、でもレストランは――」
  
 行きたくない。と言おうとしたらその前に、
  
 「ドライブスルーしよう。おべんと持ってピクニック」
  
 陸が先回りしてそう言った。
  
  
  
 ハンバーガー屋さんに寄って、便利なドライブスルーに感動している僕を笑いながら、陸は大量に買いこんだ。向かう先は、山の上。
 
 夜景が綺麗なことで有名なその場所も、まだ早い時間だから、道も空いていた。
 くねくねした峠道を、ゆっくり登ってゆく。バスなら一発で酔いそうな道だけど、少し開けた窓から入ってくる冷たい空気と、ときどき拓けて見える景色がきれいで、全然大丈夫。
  
 それでも人ごみを避けて一番上までは行かず、途中の景色が綺麗な場所に車を停めると、僕たちは遅めのランチを広げた。
 車から降りなくても、視界いっぱいに広がる山並みと、遠くに見えるおもちゃみたいな、町並み。常緑樹のくすんだ緑が、ずっと下まで続いていて、傾き始めた冬の日差しが、日溜りを作る。

 おなかいっぱいになって眠くなった僕に、陸は寝てていいよ。と笑った。 
  
 僕の気持ちいいこと、好きなこと、いやなこと、辛いこと、何も言わなくても陸は解るみたいだ。僕が陸に教えたのは名前だけなのに。
  
 「なんでそんなに、僕のことわかるの?」
   
 脈絡なく聞いた僕に、陸は一瞬目を丸くして、ちょっと考えるような仕草をした。真面目な顔をすると、やっぱり野生動物っぽい。だけど、すぐにまるい笑顔になって言う。
   
 「うち、昔から動物たくさん飼ってたから。犬も猫もウサギも、あとインコもいたっけ。だから、普通の人よりもちょっと余計に、動物の気持ちがわかるのかもな」
 「ふうん。…そうなんだ」
  
 納得した僕に、なぜか陸は、大笑いした。
   
 うとうとしてるうちに、下界に降りてきた。外はもう暗くなり始めている。もうそろそろ時間かな。三時間なんてあっという間なんだ。

 時間の流れは一定で、そういう言い回しの意味って、今までよくわからなかった。だけどほんとに『短い時間』ってあるんだと気付いた。
 夕暮れの街に、道沿いの並木や店先を飾るイルミネーションが輝き始める。
   
 「あ、」
 
 思わず呟いた僕に、陸が反応する。
  
 「なに?」
 「スターバックス」
  
 珍しいわけじゃないけど――。
  
 「入る?」
  
 ふるふる首を振った僕。もう通り過ぎたし、人がたくさんいた。
 もともと僕は空いてるコンビニやスーパー専門で、外食したり、カフェに入ったりなんてしない。ただ、スタバはテイクアウト出来るし、昔、夏に一度だけ、たまたま通りかかったとき空いてたし、喉が渇いていたし、勇気を出して入ったことがある。
 次の交差点に差し掛かったとき、車が急にUターンした。

 「え? わ」
  
 遠心力で、ドアに張り付いてしまった僕に、陸が謝る。
  
 「ごめんごめん、今のとこUターンOKだったから急だったけど、つい」
  
 そのまま、さっきのスターバックスのテラスの向かい、反対車線に幅寄せして停まった。
  
 「車停められないから、買ってくる。何がいい」
 「キャラメルフラペチーノ」
   
 冬でもやってるのかな?と思いながらも、そう云った僕に、
  
 「フラペチーノって冷たいヤツだろ?」
 「いいんだ。車の中あったかいし」
   
 僕は冬でも、アイスクリームや冷たい飲み物が好きだから。
  
 「わかった。――あれ? コーヒーだめじゃなかったっけ?」
  
 ドアを開けかけて、陸が不思議そうに振り向いた。
   
 「うん。でもあれだけは、大丈夫。コーヒーだってわかんなくて、食べてみたらすごく美味しかったから。前に一度食べたきりだけど」
  
 「確かに、あれはコーヒーとは思えないしろもんになってるな」
  
 そう言って笑うと、陸は車を飛び出してゆく。
 信号待ちの車の間を軽やかに駆け抜けて、明るいカフェテラスへ吸い込まれていった。
 冷たくて舌触りの滑らかなフラッペは、コーヒーよりもミルクの味が濃くて、少しほろ苦い後味も、ふわふわのホイップクリームと甘いキャラメルシロップが包んでくれる。
 コーヒーは飲めないけど、キャラメルフラペチーノだけは好き。

 人で溢れた店内。この寒いのに、外のテラス席にも人が座ってる。
 遠目に見ていても、たくさんの「気」が入り混じって、空気が混沌としてる。でも、なんでかな、今日街行く人の「気」は、なんとなく軽やかに見えた。
 しばらくして、人ごみをかき分けて、陸が戻ってきた。他の誰とも違う、桃色の澄んだ柔らかい「気」を纏って。
  
 「はい」
    
 白い息を弾ませ、大きな背を屈め、もぐり込むように車に乗り込んだ陸から手渡された、冷たいフラペチーノ。
  
 「ありがとう」
  
 陸が微笑む。
  
 「それと、これ」
  
 赤と緑のリボンの掛かった、キャラメル味のポップコーン。
 首を傾けた僕に、
  
 「クリスマスだからね」
    
 そう言った。
   
 「今日って、24日だっけ…。そっか、クリスマスイブなんだ」
  
 平日の夕方なのに、なんだか人が多くて、みんな楽しそう。
 イルミネーションも華やかなはずだ。言われて初めて気付いた僕に、陸が、また笑う。
  
 「ソーヤだよな~」
  
 楽しそうに笑って、云う。
  
 「残念だけどそろそろ送ってくよ。遅れて、彼女を迎えに行く時間に間に合わなかったら、もう貸して貰えなくなる」
  
  
 人間は、嫌い。
 僕は、誰ともかかわらずに生きていきたい。誰の「気」にも侵されずに、穏やかに。
  
 借り物の車を走らせる大きな手、透ける薄い色の髪、目立つ喉仏。髪型が変わっても、額から続くしっかりとした幅のある鼻筋がやっぱりライオンぽいなと思う。人間の男には違いないけど――。
  
 でも、陸は他の人と違う。
 コーヒーなのに苦くない、甘いキャラメルフラペチーノみたいに。




 ―――fin*

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