朝、目を覚ますと、目の前に房原の手があった。
 
 (どうりでなんか、重苦しいと思った――)
 
 牧瀬は、後ろから覆い被さっていた房原の腕を持ち上げると、ベッドを滑り降りた。
 あれから頻繁にやってくるようになった房原は、いつの間にかちゃっかりこの部屋に居着いていた。べつにそれは構わない。問題は房原のデカイ図体が、一つしかないセミダブルのベッドの半分以上を占拠しているということだ。
 寝つきも悪く眠りの浅いデリケートな牧瀬は、別に布団を敷くか、もう一つベッドを買おうとしたが、房原の強硬な反対によって未だに実現していない。

 牧瀬は不自然な寝かたのせいで固まった首や肩を揉みながら、いっこうに目を覚ます気配のない房原の平和な寝顔に、思わずため息をつく。
 どんな状態でも熟睡できる図太い神経がうらやましい。というより恨めしい。いっそダブルかキングサイズのベッドに買い換えようかと真剣に考えかけて、――やめた。
 男所帯にでーんと置かれたダブルベッドの図なんて、想像するだけで不気味な光景だ。
 この部屋は間取りとしてはワンルームだが、床面積がかなり広く、形も細長く鉤状になっているので、キッチン、居間、寝室となんとなく区分けが出来ている。広さから言っても二人で住んでも問題はない。
 ただ、プライベートな空間がほとんどなく、ベッドも一つなんてまるで新婚さん状態だ。今のままではこの部屋にとても人様は呼べない。

 (やっぱり、房原がなんと言おうとソファベッドくらいは置いてやる)

 牧瀬はそう心に誓った。
 そして、よく眠っている房原を尻目にさっさと会社へ行く用意を始める。
 毎週月曜は朝礼と、役職付きの朝一の会議があるため、制作部のディレクターである牧瀬はいつもより早く出かけなければならなかった。
 彼らの会社はフルフレックスなので、何時に出社してもよい建前になっているが、牧瀬は定時には出勤するようにしている。一応管理職なので、標準就業時間は会社にいるようにしようと心がけていた。もちろん、夜もある程度の時間まで残っている。

 一方房原は、締め切り前以外はお昼前に出勤するのが普通だった。制作部は、全体的に遅く始まって遅く終わる人間が多い。個々でMACに向かっての仕事が中心で、営業マンとの打ち合わせも、営業を終えて帰ってきてからになるので、自然と遅い時間の作業になる。
 だから、こんな時間に起こさなくてもいいのは分かっているのだが――。すでに出掛ける用意も整い、テーブルには二人分の朝食。
 牧瀬は、房原の布団をひっぺ返しに奥の寝室エリアに向かった。

 「ほら、起きろ!朝飯できたぞ」

 比喩ではなく、勢いよく布団をひっぺ返しながら、トドのように寝こけている房原に軽く蹴りをいれる。

 「うー…」 

 丸くなって呻くだけで、起き上がろうとしない房原に、牧瀬が冷たく言い放つ。

 「せっかく俺が作った朝飯、食わないってのか?」

 その言葉に、房原は慌ててがばっと起き上がる。が、時計を見てふにゃふにゃと崩れ落ちた。

 「牧瀬さん~、まだこんな時間じゃないっすか…」
 「だって、今日月曜だから」

 平然と言う牧瀬を、半分くらいしか開かない目で恨めしそうに見る。けれど、牧瀬の飼い犬同然、素直にベタ惚れ状態の房原は、それでもなんとか起き上がる。
 目覚ましをまったく必要としないくらい寝覚めの良い牧瀬と対照的に、房原は朝弱い。何時に寝ても、何時間寝ても、起きるのは辛いらしく、放っておけばいつまでも布団の中でうだうだしている。仕事も遅いから可哀想だし、普段はなるべく起こさないようにしているのだが――。

 房原は、寝癖のついたぼさぼさ頭で半分寝たまま食卓につく。目はほとんど開いていないし、眉間に皺がよって口はへの字になっていた。そして、思考力0という感じでただぼうっと座っている。時々顎が外れそうな大あくびをしながら。

 牧瀬は、その様子に思わず頬が緩みそうになるのをこらえながら、ドリップしたコーヒーを淹れに流しに立つ。普通の感覚であれば、だらしなくてカッコ悪いはずの寝起き姿だが、房原のそんな姿は牧瀬にとっては何故だか妙に可愛くて、最近ハマっている。
 生まれたての目も開いてない子犬みたいで、そばでずっと離れず見ていたい感じ。
 自分でもマニアックだと思うが、可愛いんだから仕方がない。それが見たくてつい、ときどきこうやって用もないのに起こしてしまったりする。
 牧瀬は彼の前に、コーヒーのカップを置いた。熱々のブラック。甘党の房原のために、トーストにバターと蜂蜜を塗ってやる。普段は放ったらかしだが、朝だけはマメに面倒をみる。だって子犬だし。

 「イチゴジャムじゃないんすか?」

 目の前に置かれたハニートーストに、房原が残念そうに言う。

 「切れてるんだよ、今。こんど明治屋行ったとき買っとく」
 「えー…。週末までいけないじゃないですかー」

 房原が開ききっていない目で、恨めしそうに呟く。
 たいがいにおいてはかなり大雑把な房原だが、ときどき妙にへんなとこに拘る。なぜか彼はジャムトースト派で、それも明治屋の甘さ控えめの苺ジャムが好きらしい。

 「うるさい、贅沢いうな。黙って食え」

 それでも、牧瀬にそう一喝されて、房原は半分寝ながらも、素直にぼそぼそとトーストを齧る。
 よくある朝の風景。今日もいつもと同じ、平和で幸せな一日。
 牧瀬はそう、思っていた。この時点では。


 「なぁなぁ、聞いたか? 優佳さんの今度の相手」
 「お、何? もう新たな犠牲者、じゃない、兄弟が生まれたのか?」

 定例会議を終えて寄った男子トイレ。手洗いの鏡の前で、営業マンがひそひそと、でも充分周りに聞こえる声で、噂話に興じている。
 あまり近寄りたくはなかったが仕方がない、手洗いは3つしかないのだ。用を足し終えた牧瀬は、仕方なくそっと彼らの横で手を洗う。

 一般に、「噂好きなのは女」という認識があるが、この会社の人間を見ている限り、それは嘘だと牧瀬は思う。出版業界の体質なのか、社内で誰と誰が付き合ってるとか別れたとか、不倫してるとか離婚したとか、その理由からなにから、何故かほとんどの社員に筒抜けなのだ。社内版ゴシップ誌が作れそうな勢いだ。
 それはそれで、ある意味すごい情報網だと思う。特に営業マンはやたら詳しい。よく言えば好奇心旺盛で情報収集が得意なのだろうが、下世話と言えば、下世話。
 牧瀬は、長めの茶髪――地毛だが――に服装もラフで、いかにも業界人な見た目だが、性格は地味で堅実な常識派なので、そういった噂話には興味もないし、あまり詳しくはない。
 しかしそんな牧瀬でも、その優佳さんの噂は聞いたことがあった。特別美人というわけではないが、かなりの有名人。理由はといえば、「すぐヤラせてくれる」というかなり失礼な噂。
 営業所で、原稿担当の仕事をしているので仕事上でもいろいろな人間と関わるし、それなりにデカイ会社なので営業マンを中心に男性と知り合う機会は多い。
 とはいえ誰でもと言うわけでもなく、相手にするのは彼女が気に入った男性のみだが。気に入れば彼女の方から誘ってくるし、好みの男性を落とすのが生き甲斐らしい。あくまで噂だが――。
 で、社内には、いわゆる「兄弟」がたくさんいる、という訳だった。やれやれ…。
 だが、思わず溜息をついた牧瀬の耳に思わぬ名前が飛び込んできた。

 「なんと、制作部の房原だってさー」
 「おお、ついに制作マンにまで手を広げたのか!」

 牧瀬は思わず、盛り上がる二人の方に勢いよく顔を向けてしまっていた。そこで始めて隣にいるのが牧瀬だと気付いたらしい営業マンは、あ、と軽く牧瀬に会釈する。

 「あ、ども、牧瀬さん。いつもご面倒おかけしてます!」

 まだ若い営業マンは、一応礼儀正しく挨拶をする。若く見える牧瀬だが、年も職級も彼らよりは上なので。

 「今の話…」

 いつもなら、絶対に関わらない手合いの話だが、房原の名前が出た以上、そうはいかない。房原は自分の直属の部下で、かわいい後輩で、――恋人なのだ。

 「あ、そうそう! いや~、牧瀬さんとこのおっとり房原くん。優佳ねえさんに、頂かれちゃったみたいっすよ~。ほら、先週の金曜の新宿営業所の達成会。担当の制作マンも呼んだらしいんですよ。で、そこにやってきた房原くんをですね、こう、パクッとね」

 二人は、品のない笑い方で爆笑する。思わず眉間に皺を寄せた牧瀬をみて、少し真面目な顔に戻った営業マンが続ける。

 「いや、でもこれ確実な情報っすよ。べろんべろんに酔っぱらった房原くんと二人でタクシーに乗って、帰ったらしいですからね。ま、でも彼にとってはオイシイ経験っすよ。後腐れもないし」

 そうフォローする男に、もう一人が、経験者は語るよな~。と意味深に笑う。なるほど、この男も「兄弟」のひとりというわけか。
 そのまま、牧瀬は二人をおいてトイレを出た。平静を装ってはいるが、内心はかなりショックだった。ただの噂話だと無視したいけれど――。
 実は牧瀬自身、前に一度優佳に誘われたことがあった。もちろんそのときは、やんわり遠回しに、お断りしたが。そのときの経験から考えても、彼女の噂はかなり真実に近いと思う。
 それに、酔わせて頂いちゃう。というのは、牧瀬にはかなりグサリとくるフレーズだった。なにしろ二人が付き合いだしたのは、まさに牧瀬が房原を酔わせて頂いちゃったのが発端なのだから。

 房原は酒に弱い。弱いくせに好きだし、勧められると断れない。とくに営業所の飲み会はやたら体育会系なので、客人扱いの制作マンとはいえ勧められるままに飲んでいれば、確実に潰される。
 そして決定的な事実。金曜の夜、房原は帰って来なかった――。
 勢いよく廊下を突き進んでいた牧瀬は、思わず立ち止まる。
 二人が初めて結ばれたあの夜から、程なくして房原は牧瀬の部屋に転がりこんできた。一緒に住みだして2ヶ月ちょっと。まだ浮気するには早すぎるんじゃないのか?! いや、何年経ったからってしていいもんじゃないけど。けど、いくらなんでも早すぎる!!――と、やり場のない怒りを抱えながら、そのまま牧瀬はまた、どかどかと歩き出す。
 突き当たりの制作のフロアに戻り自分の席に向かう途中、ちらりと房原の席を見遣る。房原は、いなかった。まだ出勤してきている様子はない。

 「今日、房原は?何時出社?」

 牧瀬は不機嫌な声で、誰にともなく訊いた。

 「今日は、同行です~。直行するそうなんで、会社に来るのは昼過ぎって言ってましたよ~」

 房原と同じチームの宮井が、のほほんと答える。同行というのは、営業マンと一緒にクライアントとの打ち合わせやプレゼンに行くことで、実際の広告を作るのは制作マンだから、直接打ち合わせたり説明した方が双方のイメージが固まりやすい為、大口の仕事のときには頻繁にあることだった。
 そう言えば、夕べ房原がそんなことを言ってたような気がする。
 言われてから牧瀬は思い出す。机についてからも、さっきの話が頭から離れなくて、仕事が手に着かない。
 牧瀬はいらいらとした手つきでデスクの引き出しを開けると、奥の方にしまいこんでいたセブンスターを取り出した。ここしばらく本数を控えようと努力していた煙草だが、こんな気分のときにモク無しでいられるか、と開き直る。

(大体、房原が煙草止めろ止めろってうるさいから…。――ああ、もう!)

 牧瀬は乱暴に取り出した煙草を咥えて、火をつける。いくら考えないようにしようとしてもだめだった。仕事中なのに、と我ながら情けなくなる。
 そんな状態で気もそぞろのうちに時間は過ぎ、そろそろ昼休みになろうかという頃、編集の今井が慌ててやってきた。

 「ちょっと~!! まきちゃん、今週の『choise』の表4誰?!」

 彼女は牧瀬とは同期で、本誌全体の進行管理やチェックが仕事だ。表4とは裏表紙のことを言う。

 「なに? 何か問題あった?」 

 牧瀬は慌てて、今週の分担表を見る。表4は――、房原だった。

 「画像データ、入稿されてないよ~。ダミーのまま行ってるみたいなの!取りあえず、今止めて貰ってるけど、今すぐ入稿し直さないと、間に合わないって」

 焦ってそう言いながら、出力会社から戻ってきた色校正紙を見せる。確かに、明らかに一部分ダミーの写真が載っていて、現物とは違うのは一目瞭然だった。
 表4の一面広告の掲載料金は一番高額で、ここを押さえてるのは大事なクライアントだし、ビジュアル面での大きなミスは雑誌全体のクオリティや読者の信頼度にも関わってくる。このまま本になったりしたら、おおごとだ。
 この表4は週刊誌のものだからスケジュールもタイトで、特にチェックは慎重にしろって毎度言っているのにと、腹が立つ。
 そう話している最中、房原が暢気に出社してきた。

 「おはようっすー」

 クライアントに会うための、珍しいスーツ姿。着馴れていないから、どうもしっくりこない。背も高くて、体格もいいのに全然似合って見えないのは、きっとこの緊張感のないぽよよん顔のせいだ。見慣れたはずの温和な顔が、なんだか今日はやけに腹立たしい。

 「房原! 表4の写真、どこにあんだよ!」
 「へ?」

 帰ってきていきなりの牧瀬の怒鳴り声に、房原はきょとんとした顔をしている。

 「これ、ダミーでしょ~??」

 仁王立ちの牧瀬の横で、今井が色校をぴらぴらと振る。

 「あ!」
 「最終稿のデータ、すぐに入稿管理の私のフォルダに入れといてよ!」

  あたふたとMACを立ち上げる房原に、それだけいうと今井は自分の部署に慌てて戻ってゆく。

 「すみませーん! 今すぐ入れます~」

 房原がMACに噛り付いたまま謝る。

 「悪い! 今井」

 背中に声をかける牧瀬に、

 「ほんとよぉ! まきちゃん今度奢りだからね」

 振り向いて、ひらひらを手を振ると自分の部署に慌てて戻っていった。まあ、今井ならなんとか間に合うように手を打ってくれるはずだ。
  牧瀬がほっと息を吐いて振り向くと、データを送り終えた房原が叱られポーズで立っている。牧瀬のデスクの前で項垂れて、手を前に組み私が悪うございました、という態で。

 「もう言われなくても、自分のミスの重大さは分かってるな? 深く反省して以後気をつけろ」

 いつもなら、こんこんとお説教が続き、合いの手のようにバカとかボケとかカスとか言われるところだ。だが、今回は妙にあっさりした一言だけで、牧瀬はデスクについてさっさと仕事に戻ると、吸いかけの煙草に手を伸ばす。
 ぽかんとした顔でしばらく突っ立っていた房原だが、もう顔をあげようとしない牧瀬と、灰皿に溜まった吸殻の山にちらりと目をやって、すごすごと自分のデスクに戻っていった。
 その後姿を、こっそりディスプレイの影から盗み見る。肩を落としつつも何か釈然としない様子の、房原の頼りない肩。
 今の牧瀬には房原に説教する余裕はなかった。なんだか別のことで理性をぶっ飛ばしてしまいそうで、あまり顔を突き合せたくないのだ。
 7つも年下の部下に手を出してしまった牧瀬は、めでたく両思いにはなれたものの、どういうスタンスで付き合うべきなのか、いまだにはっきりとは掴めないでいた。

 恋人同士――。そう括ってしまうのは簡単だが、ただでさえ男同士で、それも二人とも正真正銘のゲイというわけではない。房原には、いつか可愛い嫁さんを貰って幸せな家庭を築いていく。という選択肢だってあるのだ。もちろん、自分にも。
 あまり深く考えないようにしようと、犬を一匹飼うくらいの気楽さで始まった付き合いだけれど――。
 
 (ほんとに犬なら、よそで交尾してきてもそんな目くじら立てることもないし、こんなに気持ちが乱れることもないんだけどな…)
 
 くるりと椅子を回して、背後の窓から空を見上げる。どんよりとした、降りそうで降らないうっとうしい空。
 牧瀬は溜め息代わりに、白い煙を上に向かって長く吐き出す。今日は一日、仕事になりそうもなかった。




 なんとか表4の件も解決したその日の夜、そのまま帰りに今井と飲みに行ったため、家に着いたときにはもう日付が変わっていた。
 早く帰って事の真偽を確かめたい気持ちが半分、訊きたくない気持ちが半分、中途半端な気持ちのままだらだらと、彼女の仕事の愚痴に付き合っているうちにこんな時間になってしまった。

 「ただいま~!」

 夜中だというのに、牧瀬はやけくそのような大きな声で、玄関を開ける。声がでかくなってるのは、酔っ払いの証拠だ。迎えに出てきた房原が、靴を脱ごうとしてふらついた牧瀬を支えながら言う。

 「もう、月曜からこんなになっちゃって。誰と飲んでたんですか?」

 珍しく険しい顔で牧瀬を見る房原。あのあと口を訊いていないし、房原が席を外している間にとっとと会社を出たから、今夜さっそく今井に奢らされていたことを彼は知らない。

 「うーるーさーいー! 俺が誰と飲もうと勝手だろ! だいたい、平気で朝帰りするやつに言われなくないね」

 牧瀬は、金曜の夜のことをあて擦る。そのときは、ほかの制作のやつらか営業マンと飲み歩いた挙句、誰かの家に転がり込んで雑魚寝でもしたんだろうと――それは、よくあることだったし――、特に何も言わなかったけれど。
 房原の手を振り払い、キッチンに直行してグラスに水を注ぐ。

 「あ、あれはその、――」

 言われて、ついてきた房原が口ごもる。そこでうろたえる房原に、牧瀬はカチンときた。うろたえるのは、後ろめたいことがあるからだ。
 コトン――。
 牧瀬は飲みかけていた水をおいて、房原に向き直る。

 「あれは? なんだよ」

 すわった目で自分を見据える牧瀬に、房原は動けない。

 「酔っ払ってて、記憶が途切れてるんすけど――。気がついたら朝、公園のベンチで寝てたんです…」

 情けなさそうに言う房原に、牧瀬はもたれていたシンクからずり落ちそうになる。

 「は? 公園で寝てたって…」

 房原は、嘘をついてない。と思う。上手に嘘がつけるような、演技力も悪知恵もない。でも、記憶がないってことは、やっぱり――。
 牧瀬は、そのままずるずると床に座り込んだ。

 「牧瀬さん?」

 房原が心配そうに、座り込んだ牧瀬を覗き込む。酔ったハズミの過ちを、それも本人が記憶にないことを責めるのは大人気ないと思う。まして相手は百戦錬磨のツワモノらしいし。
 それでも、それだから余計、牧瀬は傷ついていた。
 それじゃあ、自分のときとまるで同じじゃないか――。そりゃ、安易で、人から見ればいい加減なきっかけかも知れないけれど、自分にとっては、一生に一度の賭けだったのだ。ものすごい勇気と覚悟がいったのだ。それなのに――。
 そんなに簡単に、同じように他の人間を抱くなんて、房原にとってあのときのこともただの酒の上での過ちにすぎないのだろうかと、牧瀬は胸が痛くなる。あのとき自分がどんな思いで房原を誘ったのかなんて、彼は知らない。こんなのは自分勝手な感情の押し付けだと理性ではわかっているけれど――。

 「記憶の抜けてる部分、補足してやろうか?」
 「え?」

 覗き込む房原が、怪訝な顔をする。

 「優佳さんと、一緒だったんだろ? もう噂になってるよ。今度のお相手はお前だって」
 「お相手って…」
 「寝たんだろ」

 牧瀬は言って、目を逸らす。

 「寝てません!!」

 房原は必死の形相で、ぶるぶると首を振って即答した。

 「覚えてないんだろうが。なんで言い切れるんだよ」

 視線を上げて睨みつけながら言った牧瀬だが、下から見上げているせいか、拗ねたような口ぶりのせいか、いまひとつ迫力に欠ける。
 房原は、傷ついたような牧瀬の表情に、やっきになって弁明する。

 「やってる最中の記憶はとんでても、やったかどうかはわかります! 牧瀬さんとの時だって、わかりましたよ? ――その、出したあとの感覚っていうか…。そういうの、翌朝残ってるでしょ…?」

 言われて、牧瀬の方もなんとなく思い当たって赤くなる。

 「ほんとうに、やってないんだな?」

 一応、念を押した。

 「当たり前です。俺が牧瀬さん以外の人と寝るわけないじゃないですか」

 きっぱりと言い切る房原に、牧瀬はほっと身体から力がぬける。
 そうなのだ。房原の気持ち自体は疑いようもない。駆け引きとか、力関係とかまったく考えることなく、全身全霊でしっぽ振って懐いてくる房原が、自分を裏切るなんて考えられない。不可抗力でそうなる可能性があっただけで――。
 これだけ素直だと、彼の気持ちが離れそうになっていたら、すぐに気付いてしまうだろう。たとえ気付きたくなくても、きっと。
 少し胸が痛んで、牧瀬は目の前の房原の首をふわりと抱き寄せた。すぐに機嫌を直してやるのもなんだか癪で、つい憎まれ口をきいてしまう。

 「――じゃあ、なんで金曜の夜のこと聞かれて口ごもるわけ? なんかやましいことでもあんのかと思うじゃん」
 「いや、――えーと、それはですね…」

 とたんに房原は、どきまぎと言い訳めいた口調になる。仕事でミスをして叱られているときの、謝りモードと似てる。これって――?
 牧瀬はがばっと身を起こすと、冷たい声音、冷たい目線で、ぴしゃりと言う。

 「なにか隠してることがあるなら、さっさと白状するんだな。あとで言い訳はいっさい聞かないぞ」
 「その…、えーと、キスだけ、一回だけ…」

 びくびくと牧瀬を伺いながら、それでも素直に白状してしまう房原に、

 「…」

 無言で見つめる牧瀬。

 「すみません! ごめんなさい~! 俺ほんと酔っ払ってて…、気が付いたらタクシーの中で、そんでキスしちゃってから、あれ?これ牧瀬さんじゃないかも…。とか思い当たって…。慌てて謝ってとりあえず、自分だけタクシー降りたんです。だから彼女の部屋には行ってません。信じて下さいよ~! 次に気が付いたときはマジで公園のベンチで寝てたんです!」
 「なるほどね…」

 公園で寝る羽目になった理由が理由だけに、言えなかったんだな、と牧瀬は納得した。

 「ごめんなさい~。今後気をつけます~。酒も控えます~」

 半泣きで抱きついてくる房原の背を、仕方なくぽんぽんと軽く叩いてやる。先にこう思いっきり謝られてしまうと、そんなことくらいで怒っている自分がばかばかしくなる。これはこれで、房原の手なのではないかとさえ思えてきた。

 「…わかったよ。ったく、ほんとおまえ少し酒ひかえたほうがいいぞ」

 溜め息混じりに穏やかに言った牧瀬に、

 「はいっ!」

 元気いっぱいに頷いて、房原がほっとした顔で笑う。

 (なんだかな~。これって恋人同士の会話なのか? なんかお母さんと子供のような感じ――)

 牧瀬は苦笑する。

 「とにかく、俺がアイシテルのは牧瀬さんだけですから! 浮気とか絶対、死んでもしませんから!」

 前言撤回。聞いてるほうが恥ずかしくなる、直球のセリフ。房原はこういうセリフをふつーに口にする。いたってナチュラルに。

 「はいはい」

 牧瀬はさらりと流すふりで、房原から身を離し台所に向き直ると、置いてあったコップの水を飲み干した。相手にしていないような態度で、でも心臓はドキドキしている――。
 色素の薄い牧瀬の白い首が赤く染まり、後ろを向いて隠したつもりの赤面も房原にはバレていた。ほんとは、その言葉を嬉しいと感じている牧瀬の気持ちも。
 房原の唇が、うなじに降りてくる。暖かい濡れた感触に、牧瀬はびくりと首を竦めた。
 その体ごと、後ろから抱きしめて、耳に舌が差し入れられる。

 「や、房原…」

 思わず抗うような仕草をした牧瀬を押さえ込むように抱えこんで、房原の右手がベルトを外し、ジーンズを緩めて潜り込んでくる。

 「はぁ、ん、ちょっ…と、房原。ここじゃ…」

 真上にあるキッチンの灯りはついていないが、部屋は繋がっている。居間からの灯りで十分過ぎるほど明るいし、立ったままだ。房原の手の動きに流されまいとそう言う牧瀬の顎を掴んで上向けさせ、房原はそのままキスで口を塞ぐ。
 口腔を這い回る舌と強く吸う唇が、湿った音をたてる。崩折れそうになる牧瀬の体を支えながら、房原が調味料棚のあたりに手を伸ばし、ごそごそと何かを手探りで探しあてた。
 半分ずり落ちたジーンズ、下着の中で蠢く房原の手と口づけに翻弄されて、牧瀬はそのことにまったく気づいていない。
 下着を下ろされて外気に晒された下腹部を覆う、冷たいとろりとした感触。

 「ひぁ…、ん、なに?」

 思わず見下ろした牧瀬の目に、濡れて光る液体に包まれた自分のものと、塗りこめるように動く房原の大きな手が映る。恥ずかしさに、思わず目を逸らした牧瀬の鼻をつく、独特の甘い匂い。

 「ちょ、房原おまえ、何やって…」

 言いかけて、ぐっと息を呑む。それ以上、もう言葉にならない。蜂蜜に濡れた指が後ろに差し入れられ、入り口にも、中にも、蜜が塗りこまれてゆく。牧瀬の熱に溶かされて、ゆるくなった液体が腿を伝う。
 立っていられなくなってずるずると床に落ちる牧瀬をそのままキッチンに凭れさせると、房原は、牧瀬の足から下着ごとジーンズを引っ張って抜き、放り投げる。

 「食べ物粗末にしやがって…。床が、汚れる――」

 上がった息遣いの合間に、牧瀬がこぼす。言っていることは色気がないが、紅潮した頬に潤んだ目、激しいキスで赤く濡れた唇が誘うようで、房原の欲望をさらに煽る。

 「粗末になんて、しませんよ。床は、あとで俺が掃除します」

 言いながら、投げ出した牧瀬の足の間に跪き、顔を埋める。

 「なっ! …あぁ、んっ、」

 絡み付く房原の舌と唇の感触に、喘ぐ声が抑えられない。深く吸ったり、丁寧にぴちゃとぴちゃと音をたてて、甘い蜜を舐めとる房原の頭を、牧瀬は思わず強く掴んでいた。

 「ば、か…、あ、はぁ…んっ。蜂蜜嫌いなんじゃ、なかったの…、か、よ…。くっ、」
 「嫌いなんて、言ってないですよ。パンにはジャムがいいってだけで。――甘くて、あったかくて、美味しい」

 そう言うと房原は、牧瀬を深く含んで、後ろにも指を入れて愛撫する。

 「あ、ばか、離…せっ! 出ちゃう、ってば…」

 引きはがそうとする牧瀬の手を無視して、そのまま深く吸い上げた。

 「――くっ、」

 我慢出来ずに迸らせた牧瀬の蜜を、房原は一滴も零さず受け止め、飲みくだした。

 「――なんてことすんだよ…」

 放心状態で、力なく呟く牧瀬をそっと倒して、房原が覆い被さってきた。下腹に、硬くて熱いものがあたる。
 「愛があるから」
 臆面もなく笑顔で言ってのける房原に、牧瀬は返す言葉も無い。
 「食べたいくらい好きって、よく言うでしょ? 牧瀬さん以上に、甘くて美味しい人なんていませんもん」

 にへらっと笑って、牧瀬の頬に軽く音を立てて口付けると、そのまま押し入ってくる。房原の熱い昂ぶりを中に感じながら、しょうがないな、と彼の首を抱きしめるようにぎゅっと手をまわす。
 冷たい床の上で上がりつづける二人の体温。動物のように交わりながら、牧瀬は思う。
 大人気なくても、つまんないことでいちいち傷ついても、それでも好きなんだから、――しょうがないか…。
 甘い匂いと、房原のぬくもりのなかで、牧瀬は素直に欲望と愛おしさに身を任せた。

 
 水曜の朝――。
 毎週、各営業所の原稿担当の女の子が本社に集まってくる。1時間ほどの会議を終えて会議室から若い女の子ばかり、おしゃべりしながらぞろぞろ出てくる様子は壮観だ。フロアの反対側の制作部からもつい目が行ってしまう。
 原稿担当者は制作マンとの仕事上のやりとりも多いので、そのうちの何人かは帰りにこっちによって、各担当制作マンのところでおしゃべりしている光景も、いつものことだった。ただ、会議はいつも午前中なので、まだ出勤していない制作マンも多い。
 牧瀬は、なんとなく見るともなしにその光景を眺めていた。例の優佳さんも原稿担当だから、今日来ているはずだ。彼女は普段あまりこっちに寄ることはないけれど。
 房原がまだ出勤してなくて良かったなと思う。彼女と話している光景をみるのは、やっぱり面白くない。と思ってしまうあたり、我ながら心が狭いと思うけど。
 牧瀬は溜め息をつくと、ディスプレイに視線を戻し、仕事に集中しようとした。
 すると、デスクの前にすっと立つ人影と香水の香り。

 「お疲れ様です、牧瀬さん」

 顔を上げた牧瀬に、にっこりと微笑む例の彼女。そんなに露出はないけれど、何気に身体のラインがわかるニットワンピース。緩くウェーブのかかった長い髪。相変わらず、男好きする感じの柔らかい雰囲気。これでいて中身は、けっこうキツい性格(という噂)。

 「お疲れさま」

 引きつらないように気をつけて、牧瀬もにっこりと微笑みかえす。どうして、自分のところへくるのかと、内心ではかなり動揺していたが。

 「房原くん、まだ出勤してないんですね」

 房原の席の方を振り返りながら、彼女はそう言った。

 「――今日は、午後からの出勤だったと思うよ」

 答えながら、なんとなくムカつく。そんな様子はおくびにも出さないけど。

 「これ――。彼に渡しておいて頂けますか? 忘れ物です」

 そう言って、机の上に小さな紙袋を置いた。
 なんで、わざわざ自分にことづけるんだ? と牧瀬は思う。どうせ午後からくるんだし、房原の机の上にメモでもつけて置いておけば済むことなのに。それに忘れ物って――。

 「タクシーの中に、忘れたのかな?」
 「ええ」

 くすりと笑って、彼女が頷く。つい、傍点つきで『タクシーの中』と言ってしまった。

 (房原のやつ、酔いに任せて余計なことしゃべったんじゃないだろうな…)

 「それじゃあ、よろしくお伝えくださいね」

 そうにっこり笑って帰ってゆく彼女の後姿を、見送る。無意識のうちについ眉間に皺が寄っていた。なんとなーく、感づかれたようで落ち着かない。
 あの彼女が、今さら「房原くんを食っちゃった」という噂に水を注すような言動はしないと思うけれど…。男の恋人がいて自分の誘いを断られたとあっては、彼女のプライドに関わるはずだし。房原にも、否定しないように釘を刺しておかなくちゃな――。
 牧瀬は無理やりそう自分を納得させると、目の前の紙袋を引き寄せた。明治屋のロゴが入っている。中身は言わずと知れた苺ジャム。週末まで我慢できずに、銀座に出たついでに買ったらしい。
 包みを手にとって、牧瀬はしばらく考えてから、デスクの下の引き出しの奥へそれを放り込んだ。

 (取りあえず、おあずけだな)

 牧瀬はいたずらを思いついた悪ガキのようにほくそえむ。
 今週いっぱいは締め切りに追われて、買い物に行く暇なんてないだろうし、週末もなにか理由をつけて、外出させてやんない。プチ浮気のお仕置きとしては、これぐらい可愛らしいものだろう。それに、

 (蜂蜜だって、けっこう気に入ってたしね――)

 牧瀬は、まだ出勤していない房原のデスクにちらりと目をやり、くすりと笑った。
 今日も遅くなるだろう房原を、待たずにさっさと寝てしまおう。セミダブルのベッドで、ほんの少しだけ右側を空けて。そして、朝8時には彼を起こすのだ。熱いコーヒーと、ハニートーストを用意して。

 寝癖のついた頭、開かない目。この世の終わりのような情けない顔で向かいに座る恋人のために。


 ――fin*
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